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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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タッコング大逆襲 〜橋本洋二VS上原正三

変身ポーズ

『帰ってきたウルトラマン』のグランドデザインは、メインライターの上原正三と、TBSの担当プロデューサーの橋本洋二によって描かれた。上原の橋本への第一印象は「小柄ながらきかん気が顔に出ている。テレビ局の人間というより官僚を思わせるスキのなさ」というものだった。

「隊長は出動しか言わないのですか?」
いきなりの先制パンチだ。
「はあ?」
金城もとまどいを見せる。局のプロデューサーがセリフにまで口出しすることはこれまであまりないことであった。
「キリヤマ隊長のセリフ、出動だけですかね」
「え?」
金城も、橋本が何をいってるかよくよく呑み込めない様子だ。
「シナリオに登場するからには、例え通行人であろうとも、その人物なりの人生を背負って登場するわけでしょう」橋本が切り出す。
「ああ、そりゃ、そうです」と金城。
「ですから、その時、その場所、その瞬間、その人物にしか言えないセリフがあるはずです」
ウルトラ警備隊の隊長といえども、個人としての人生観や価値観をきちっと持っているはず。毎回、出動! 撃て! それだけ言うのであればロボットと同じではないかと言うのだ(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三著)。

引用のとおりで、橋本プロデューサーが『ウルトラセブン』に持ち込んだものを一言でいえば、それは「リアリティ」と呼ばれるものだった。人物の状況や心理を現実的に描くこと。そうして生まれた作品として、キリヤマ隊長の心の動きを丹念に追った第23話「明日を捜せ」や、同じくフルハシ隊員の心理描写に優れる第24話「北へ還れ」などが挙げられるだろう。いずれも『ウルトラマン』には見られなかった、やや大人向きのドラマだ。

こうした変化は、端的に言えば「マンガ」から「劇画」への変化だと見ることができる。
評論家の夏目房之介さんが指摘するとおり、梶原一騎の『巨人の星』は、ちばてつやの『ちかいの魔球』の「いただき」、要はパクリだった。片親の主人公が魔球を駆使して巨人のエースになるが、肩を壊して引退する。基本的なストーリーは同じだ。

が、正直に告白すれば『ちかいの魔球』を最後まで読むことは、ぼくにとって苦痛以外の何者でもなかった。人物が生きていないので、迫ってくるものが何もない。表情やセリフもいくつかのパターンの組み合わせなので、次の展開が(セリフでさえも)簡単に予想できてしまう。面白いわけがない。
ところがこの古くさい『ちかいの魔球』が書かれたのは1961ー1962年だと言う。『巨人の星』の連載が始まるまで4年も待たないのだ。これは対象年齢の問題ではない。両者はいずれも『週刊少年マガジン』に連載された作品だ。

言うまでもないが、この劇的な変化を「マンガ」に持ち込んだのは梶原一騎だ。wikipediaによれば「手塚治虫は梶原一騎の世界をなかなか理解できなかったようで、スタッフに『巨人の星』を見せ、『これのどこが面白いのか教えてくれ』と頼んだらしい」とある。『ウルトラセブン』放映中に現れた橋本洋二プロデューサーと対峙したときに金城がみせた戸惑いは、この手塚治虫の『巨人の星』への反応に案外近いものだったのかもしれない。

古典的な子ども番組だった『ウルトラマン』という「マンガ」は、人間を描く『ウルトラセブン』という「劇画」に変化していった。そう見ることもできるだろう。


という具合で、『帰ってきたウルトラマン』のグランドデザインには橋本洋二が持ち込んだ「リアリズム」があった。
ではもう一人の上原正三にとっての『帰ってきたウルトラマン』とは何だったか。

そもそも子ども番組の脚本を書くことに難色を示していた上原を、強引に円谷プロに引っ張り込んだのは金城哲夫だった。入社後もあくまで沖縄を題材にした本格脚本に固執する上原だったが、やがて金城の情熱が乗り移っていくように、一本、また一本を作品を仕上げていくようになる。そして『ウルトラセブン』の後半になると、新番組の立ち上げのために脚本を書けない金城に代わって、実質的なメインライターとして筆をふるうまでになる。最終回に向かう43話から47話までの5本の脚本には、すべて上原正三の名がクレジットされているほどだ。

ところがそんな上原は金城が円谷プロを退社すると、自分もあっさりと後を追うように辞めてしまう。
「オレ、金城を手伝うためにここにいたんです。金城がいなくなると、ここにいる理由もなくなるわけで」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三)

そうしてフリーになっていた上原だったが、円谷プロ社長、円谷一によって『帰ってきたウルトラマン』のメインライターに指名されることになる。この時の気持ちを上原はこう述べている。
「すでに『ウルトラマン』『ウルトラセブン』という金城哲夫が作り上げた完成された世界がある。凌駕するのは至難の業だ。課題は、ウルトラマンを登場させながらどれだけ新しい要素を付加できるかだ」(同)

金城を「手伝うため」に『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に参加したと言い切る上原正三の目には、それらの作品は「完成された世界」だと映っていた。だとすれば、金城ウルトラの続編を作る以上、上原が積極的に金城の世界を壊そうと考えるはずはない。「どれだけ新しい要素を付加できるか」がせいぜいだと、上原自身も言っているのだ。

ここに橋本の持ち込んだ「リアリズム」を加えると『帰ってきたウルトラマン』の全体像が見えてくる。それは金城のウルトラの、リアリズムによる再構築だった。金城ウルトラの劇画的な解釈だと言ってもいいだろう。

例えば、しばしば『帰ってきたウルトラマン』の独自性と言われる第2話「タッコング大逆襲」での郷秀樹の変身不能シーン。あれもリアリズムによる再構築の一端だと見ることができる。

『ウルトラマン』ではあまりに簡単にハヤタがウルトラマンに変身するせいで、まるでハヤタが自由自在にウルトラマンを「呼ぶ」人であるかのように見えた。要は、ハヤタは「ウルトラマン使いの青年」だと思われた。そのため後にウルトラマンが、戦闘代行業者=在日米軍のように語られたことは、すでに散々見てきたとおりだ。
しかし、実際にはハヤタはウルトラマンを「呼ぶ」人ではなく、ウルトラマンに「なる」人だった。ハヤタの平和への意志と、死をも恐れぬ勇気がなければ、ウルトラマンは地球上に存在しないも同然だった。

「タッコング大逆襲」で表されていたのは、まさにこの一点だ。
郷秀樹は便利にウルトラマンを「呼ぶ」のではなく、自身がウルトラマンに「なる」。これを強調するために、一度は郷が自由自在に変身できるわけではないことを表現しておく必要があったということだ。そうすることで、ウルトラマンの戦いが、人間郷秀樹の戦いの延長にあることをハッキリと伝えることができる。
だからこの回での郷の変身不能は、何も奇を衒った表現ではない。金城がなんとなくお約束事にしてしまった部分を、正確かつ現実的に組み立て直しただけのことだ。

では『ウルトラセブン』はどう再構築されたのか。
すでに見てきた通り、セブン=ダンは、人間を保護したり庇護したりする存在ではなく、彼らの戦いに協力や助言をする者だった。しかしそうしたセブンのあり方には絶対に欠くべからざる前提があって、それはあの世界の日本人が自主独立心と自衛力を持っているということだった。

しかしこの表現はかなりアイロニカルに過ぎた面もあるだろう。実際にはぼくらの日本には自主独立心も自衛力もない。だからセブン=ダンがぼくらの地球にとどまる理由はどこにもない。一見ハードなリアル路線に見える『ウルトラセブン』は、ありもしないものを前提にした丸っきりのメルヘン、妄想の産物だったということだ。

しかしもしもこの日本に、自主独立と自衛力を求める人々の戦いがあるとしたらどうだろう。無論、彼らはまだそれを掴みとってはいない。だからウルトラマンは、彼らのそんな戦いに協力するために「帰ってきた」のだとしたら・・・。

もしも『帰ってきたウルトラマン』の根底にそんな見えざる意図があったとしたら、それは『ウルトラセブン』の世界を180度ひっくり返してみたものだと見ることもできる。
セブンでは空想上の前提だったものを、現実の世界で実際に掴みとろうとする人々の物語。それはちょうど、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の二人の隊長がそれぞれの最終回に叫んだ誓いと一致する。
すなわち、地球の平和はわれわれ人類の手で守り抜かなければならない、という誓いだ。

そうしてみると、『帰ってきたウルトラマン』とは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』での最後の誓いを、シリーズ全体で表現したものだと考えることができる。そしてそれこそが、『帰ってきたウルトラマン』が金城の『マン』『セブン』の再構築であることの証明に他ならないだろう。

つづく

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