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竹波エーイチ

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1967年生まれのおっさん。
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ウルトラマンA最終回 最後の言葉は名言か?

エースの願い

『ウルトラマンA』最終回、第52話「明日のエースは君だ!」は、次のような言葉で締めくくられる。

やさしさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、
互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
それがわたしの最後の願いだ


現在発売中の『ウルトラマンA』DVD13巻のパッケージに「今なお色褪せない感動のメッセージが再び」とあるように、このウルトラマンA最後のセリフは、一般的には「名言」だと言われている。
もちろんぼくも、このセリフだけをとれば「名言」だと思う。

しかし、『ウルトラマンA』はこの最終回だけが単独であるのではなく、52回も続いたシリーズ作品だ。
それで『ウルトラマンA』を第1話から順番に見ていくと、実はこの「最後のセリフ」が「名言」でも何でもなく、ウルトラマンAの「敗北宣言」に他ならないことが分かる。

敗北宣言・・・。
それではウルトラマンAは何に敗北したのか?

そもそも『ウルトラマンA』が他のウルトラマンたちと決定的に違うのは、それが元々は「男女の合体による変身」というスタイルをとったことだ。普通に考えればこのスタイルの根源には、男性である北斗星司の「勇気」と、女性である南夕子の「やさしさ」の融合、という発想があると見ることができるだろう。
あるいはそれらを、「父性」と「母性」の融合、と考えることも可能だろう。

このうち、「父性」については前作『帰ってきたウルトラマン』が絶好のお手本となる。
11歳の少年、坂田次郎くんはMAT隊員・郷秀樹の生き様を間近に目撃し続け、郷に憧れ、郷のようになりたいと願った。郷はそんな次郎くんに「ウルトラ5つの誓い」という生活規範を与えた。
この郷秀樹の一連の行動の全てを一言で言えば「父性」ということになる。

一応、Wikipediaから「父性」を引用すれば、こうなる。

「子供を社会化していくように作動する能力と機能」
「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」
「善と悪を区別して指導する傾向」


『仮面ライダーV3』や『快傑ズバット』で主役を演じた宮内洋は常々「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」というポリシーを表明していたそうだが、ヒーロー番組の「父性」を分かり易く言えばそういうことになるだろう。

一方「母性」のほうを、同じくWikipediaから引用すれば、こうなる。

「子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指す」
「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」


もしもヒーロー番組が宮内の言うように「教育番組」であるのなら、「父性」だけでは「教育」の半面しか伝えられないことも確かなことだ。子どもにとって「父性」と「母性」はいずれも必要不可欠なものであり、また、それらは往々にして相互補完的な関係にある。

前作『帰ってきたウルトラマン』で完全とも言える「父性型ヒーロー像」を提示してしまったウルトラシリーズが、並み居るライバル番組に打ち勝って視聴率をとるには、前作の焼き直しというわけにはいかなかったのだろう。さらにはヒーロー番組の王者として新境地を切り開くには、より完全なる「教育番組」の高みを目指すことも求められたことだろう。

かくして『ウルトラマンA』は、「父性(勇気)」と「母性(やさしさ)」が融合した、最強のヒーロー像を模索することになった。
と、ぼくは想像する。
しかし、そんなウルトラマンAが最終回で目にしたものは、全くもって彼の当初の意に反した、子どもたちの行為だった。

この回、ウルトラマンA=北斗星司は、地上に不時着したサイモン星人の子どもを、人間の子どもたちが寄ってたかってイジメている光景を目撃する。この子どもたちは、それぞれ大好きなウルトラ兄弟のお面をかぶり「ウルトラ兄弟でーす」と言う。北斗は
「ウルトラ兄弟は弱いものイジメはしない」
と叱り、子どもたちは反省する。が、実はこのサイモン星人は、かつてウルトラマンAに滅ぼされたヤプール人の変装だった。テレパシーを使ってそのことを知った北斗は、サイモン星人に化けたヤプール人を射殺するが、その様子を子どもたちに見られ、責められてしまう。そして
「もうやさしさなんか信じないぞ」
と言われるにいたり、ついに
「ぼくがやつのテレパシーがわかったのは、それはぼくがウルトラマンAだからだ」
と言って、子どもたちの目の前でウルトラマンAに変身する。
超獣を無事に倒したウルトラマンAだったが、ウルトラの掟によって、地球を後にすることになる。
このとき、ウルトラマンAが子どもたちに残した言葉が、上述の「やさしさを忘れないでくれ」だった・・・。


つまり『ウルトラマンA』は、その全52話をかけても、ついにこどもたちに「やさしさ」を伝えることが丸っきりできなかった。だから遺言のように、今更ながら具体的に言葉に発して訴えるしか手がなかった。
(中年特有の嫌味な見方をするならば)「名言」と言われる「エースの言葉」の正体は、実のところ負け犬の捨て台詞のようなものだったのだ。

という具合で、ぼくはウルトラマンAの「最後の言葉」は、彼の事実上の「敗北宣言」だったと考えている。
しかしそれは決してウルトラマンAが無能なウルトラマンだったからではない、とも考えている。『ウルトラマンA』はあの時代、すなわち1972年当時の日本社会の風潮にマッチした「教育番組」であろうとした。現実世界に生きている子どもたちにとって、良かれと思うことを貪欲に作中に取り込んでいった。
ところがその結果、『ウルトラマンA』は一種の自家中毒を起こしてしまった。
ぼくはそう考えている。


それでは『ウルトラマンA』は何を作品に取り込み、何に中毒し、何に敗れ去っていったのだろうか?
ウルトラマンAが子どもたちに伝えたかった「やさしさ」は、なぜ失われていたのだろう?

ぼくはその原因を、「戦後民主主義」と言われる当時の社会思潮にあったと思っている。

つづく

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