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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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輝け!ウルトラ五兄弟  ~第二期ウルトラの幕開け

ウルトラ兄弟

一般的な分類としては、『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』までを「第一期ウルトラ」といい、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までを「第二期ウルトラ」と言うそうだ。この区分けが、『セブン』から『新マン』の間に数年のブランクがあったことによるものであることは今更言うまでもない。

しかし実際に作品を見てみると、この線引きには単なる時間の断裂という以外に、ほとんど意味がないことが分かる。
作品の内容で見れば、『帰ってきたウルトラマン』が先輩である『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の流れを完全に受け継いでいるのに対し、『ウルトラマンA』はそれらとは全く異なる世界観からスタートしている。それはもう、全く別の構想から始まった、全く別のテレビシリーズのスタートと言っても過言ではないくらいの違いだ。
だから「第二期ウルトラ」は、『ウルトラマンA』を中興の祖とする、というのがぼくの見方だ。

簡単に説明すると、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』におけるM78星雲人は、人間への友情をベースに、人間の人間による人間のための自衛の戦いに、協力・助力をする者だった。彼らはできる限り人間として戦いに参加し、やむにやまれぬ状況に陥った時はじめて、ウルトラマンとしての力を使った。そこには、人間の平和は人間自身の手で掴み取らなくてはならない、というメッセージが込められていた。
強引にまとめてしまえば、異星人どうしに芽生えた友情と、人間の自立が、前3作のテーマだった。

では『ウルトラマンA』はどうか?

第1話「輝け!ウルトラ五兄弟」は、超獣ベロクロンが突然現れて、広島県福山市を襲撃する場面から始まる。異次元人ヤプールによる地球侵略の幕開けだ。地球防衛軍がこれを迎え撃つが、あっさりと全滅。主人公の北斗星司と南夕子もベロクロンに襲われて死んでしまう。

すると宇宙からウルトラ5兄弟が現れて、中央に陣取るウルトラマンAが二人に指輪を与えた上で、こういう。
「銀河連邦の一員たるを示すウルトラリングを今おまえたちに与えた。そのリングの光る時、おまえたちは私の与えた大いなる力を知るだろう」
ウルトラマンAの力で生き返った北斗と夕子は、全滅した地球防衛軍に代わって新しく組織された防衛チーム、TACに入隊するのだった・・・。


以上はごく簡単なあらすじだが、『ウルトラマンA』が前3作と全く異なる世界観に基づく作品であることは、容易に理解されたことと思う。

まず、この世界には「善」であるウルトラ兄弟と「悪」であるヤプールの間の戦いの構図が、先行して存在する。で、そのヤプールが今度は地球を狙ってきた。だから、ウルトラマンAも地球にやってきた。
つまり、前3作では「善意の第三者」であったウルトラマンは今作では「当事者」であり、これまでは「当事者」だった地球の人間のほうが「善意の第三者」に置かれた。ここには、M78星雲人と地球人の友情、というような概念は最初から存在しない。ウルトラマンはウルトラマン、人間どもは人間ども、と明確に区分されている。

さらに、ウルトラマンAにとって重要なことはヤプールを全滅させることであって、地球の人間を守ることではない、という点も見逃せない。現れたヤプールを倒すためにウルトラマンAは現れ、それが結果的に地球の人間を守ったように見える、というのが『ウルトラマンA』の戦いだ。
これが前3作と全く違うというのは、初代ウルトラマンやウルトラセブンにはなかった「正義の御旗」を、ウルトラマンAは掲げているというところにある。言ってみれば、ウルトラマンAから見れば、地球なんぞは彼らの聖なる戦いの戦場でしかない。

だからウルトラマンAは、一貫して地球の人間を「保護」してしまう。
ヤプールさえ滅びればウルトラマンAの目的は達成されるんだから、別に地球の人間が「自立」しようがしまいが、ウルトラマンAにとっては関係ない話というわけだ(そのせいか、今作の防衛チームTACは、ちょっと機体に火がつくとすぐに脱出して戦線を放棄してしまう)。

という具合で、とにかく『ウルトラマンA』と前3作では、共通点を見つけるほうが困難なほど、その本質が全く異なる。『ウルトラマンA』を『帰ってきたウルトラマン』の続編だというのは、『キャプテン・ウルトラ』を「ウルトラシリーズ」だと言い張るくらい無理があるようにさえ思える。


と言っても、その世界観の違いをあげることで、ぼくが『ウルトラマンA』を非難しているということではない。『帰ってきたウルトラマン』は金城的ウルトラ世界の完成形で、もはやその続編を作ることは、しつこい焼き直しにしかならないだろう。『ウルトラマンA』が根本から設定を練り直すのは必然的な作業だ。

問題は、その新しい設定には、元々の無理があったのではないかということだ。
上述したように『ウルトラマンA』の世界観には、ウルトラはウルトラ、人間は人間、という分離がはじめから存在した。ウルトラは、「大いなる力」を人間に「与え」る存在だった。
ところが『ウルトラマンA』の売り物の一つは、男女の合体による変身だった。人間の男女が合体することで「性差を超えた超人」が出現する、ということになっていた。

人間とウルトラは分離しているのに、人間の男女が合体するとウルトラになる・・・。
これは明らかな無理であり、完全に矛盾した設定だといえるだろう。

また、『ウルトラマンA』では、「ウルトラ兄弟」という集団の存在が、その第1話から前面に押し出された。第27話からは「ウルトラの父」までが登場してくることになる。
しかし、立ち返ればどこまで行ってもウルトラはウルトラ、人間は人間、と言うのが『ウルトラマンA』の世界だ。果たしてそこに、ぼくら人間の子どもたちに伝えられる何かは、存在するものなのだろうか?

つづく

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