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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
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『仮面ライダー』と自虐史観 〜平山亨

ゲルショッカー

繰り返しになるが、『仮面ライダー』は「正義のヒーロー」による勧善懲悪の物語としては構想されなかった。重要な点だと思うので、もう一度、市川森一の提案を『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』から引用する。

正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです。


とにかく、『仮面ライダー』における「悪」とは、人間の自由を奪う者、として定義されたということだ。

ところでその「悪」の反対語・反義語とは何かと言えば、これは「正義」というよりも「善」ということになるだろう。辞書によっては「正義」も「悪」の反義語であると書いてあるものもあるが、一方で「正義」の反義語は「不義」であると書いてあるものもある。いずれにしても「悪」と「善」が反対語であることだけは一致しているようだ。

というところで我らが主人公、本郷猛だが、作品を観る限りにおいては、彼はお世辞にも「善」とは言いにくい面が多々ある。本郷はショッカーを追うためには改造バイクでスピード違反も犯すし、他人の家に勝手に入るし、公共物を壊したりもする。ボランティア活動に励んでいるわけではないし、礼儀正しいわけでもない。
はっきり言って、子どもに本郷さんのマネをしなさい、と奨励する親はまずいないだろう。

そんな本郷猛=仮面ライダーは、それでも「正義のヒーロー」と呼ばれる。
その根拠となるものは何か。それはおそらく、本郷猛が「悪」のショッカーと戦っていること。この一点にあるのではないかとぼくは思う。「悪」と対抗しているのだから「善」であり「正義」である。
反対語、反義語的に、本郷は「正義」となった。
つまりは本郷の「正義」を担保しているのは「悪」のショッカーの存在にしかなく、もしショッカーが消滅したなら、その時点で本郷の「正義」の称号も消える・・・。

と考えた場合、ここでも(『ウルトラマンA』同様に)まず「悪」ありきの構図が見てとれる。
そしてその「悪」のショッカーは『仮面ライダー』においては「人間の自由を奪うもの」ときっちり定義された上で、戦前の大日本帝国の陰が見え隠れしている・・・。

そして『仮面ライダー』とは、言ってみれば「父殺し」の物語でもあった。
仮面ライダーは自らを生み出したショッカーを否定し、戦い、復讐する・・・。


いいかげんクドいのでサラッと言ってしまえば、『仮面ライダー』における「正義」、すなわちショッカーとの戦いとは、この国の過去を恥じて否定しようとする、自虐史観の「正義」と一致しているのではないか、ということだ。
まず、絶対的な「悪」を規定し、それと戦う者を「正義」だとする構図。このとき「悪」の側の言い分は認めない、というか表明されない。それは、ただただ「侵略」し、人間から自由を奪うものだとされる。

そしてこの構図は、同時に戦後民主主義の構図とも一致する。
『ウルトラマン』の「故郷は地球」などで有名な脚本家、佐々木守は戦後民主主義について、こんなことを書いている。

「日本の敗北を体験した僕には『戦後民主主義』は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった」(『佐々木守シナリオ集・怪獣墓場』あとがきより)


これを逆に読めば、戦前の日本では、体制や社会や組織が、個人よりも優先されていた、ということになる。そんなところに、市川森一の言うような「人間の自由」があるとは到底思えない。
つまりは戦後民主主義と自虐史観は、いずれも戦前の日本を「悪」だと規定して、完全否定するところからスタートしたと考えていいように思う。
そしてぼくらが熱狂した『仮面ライダー』も、内部にそれらと同じ構図を持っていたと見ることができると思う。

その結果、そんなヒーロー番組をみて育ったぼくの中に、いつしか自虐史観や戦後民主主義を受け容れる土壌ができていたのではないか、とぼくは怪しんでいる。「悪」とは侵略し、人間の自由を奪うものであり、「正義」とはそれと戦うものである。思考の中枢にこの単純だが大仰な様式だけが刷り込まれ、まとまった教育(洗脳?)を受けた覚えが全くないにも関わらず、自虐史観的な考えに染まっていった。
今はそんなふうに考えている。

とは言っても、『仮面ライダー』を作った人々が、そういった効果を狙ってこの作品を制作したということではない。彼らがぼくら子どもたちを喜ばせ、正義を愛する心を育んでもらおうという明朗な意図を持っていたのは疑いがない。
だから、同じようなスタッフが集まっても、上述のような構図を持った作品もあれば、反対にむしろ戦後民主主義や自虐史観を乗り越えようとするような作品もあって、一貫性はない。

問題は、それらを無邪気に楽しんでしまったぼくらの中にあるのだろう。
受け手のぼくら自身が、今こそ冷静にヒーロー番組から受けた心理的な影響などを点検し、そこに自虐史観的な発想の元があるのならば心を鬼にして否定する、そういった気構えが必要な気がしている。

というわけで、次回からはぼくらの世代が4歳から8歳くらいの間に親しんだヒーロー番組の、それぞれの世界観について検討したいと思う。ただ、ぼく自身も一応働き盛りの中年のおっさんで自分の仕事もアレコレ抱えている身分なので、全てのエピソードを観るなんて余裕はない。それでほとんどはDVDの最初の1枚を観るくらいで済ませることになってしまうが、あらかじめご容赦いただきたい(って、ろくに読んでる人もいないくせにな)。

つづく


なお、このカテゴリの冒頭に書いたとおり、以上の考察はあくまで個人的な感慨のようなもので、一般性・普遍性があるとは微塵とも考えていません。ヒーロー番組が大好きで、好きがこうじて防衛大から陸自への道を歩んだ人もいるでしょうし、ヒーロー番組とは全く無縁なまま、現在日教組で自虐史観をまき散らしている輩もいることでしょう。

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