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竹波エーイチ

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空の大怪獣ラドン・大怪獣バラン ~熊襲と蝦夷

RadonVaran.jpg

『ゴジラの逆襲』に続く東宝怪獣シリーズは、『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『大怪獣バラン』(1958年)だった。いずれも原案は怪奇小説家の黒沼健。Wikipediaによると、日本で最初にノストラダムスを紹介したのが、この黒沼健だそうだ。

ところで、ラドンとバランの名前を併記したとき、そこで必ず語られるのが彼らの出身地が醸し出す日本古代史との因縁だ。ラドンは阿蘇、すなわち「クマソ」を表しており、バランは東北の「エゾ」を表していると。

ぼくがその因縁について初めて読んだ文章は、赤坂憲雄先生という民俗学者の書いた『バランとラドンは、なぜ滅ぼされるか?』(『怪獣学・入門!』)だった。
副題を見れば本文の内容はだいたい察しがつくと思うが、それは「まつろわぬ民の末裔たちの反撃」となっている。そして表題の「なぜ」に対する赤坂先生の解答は、それらが日本古代史をなぞったことによる物語的な必然だから、ということになるだろう。新しい日本の物語の誕生であった『ゴジラ』と違い、『ラドン』『バラン』はすでに陳腐化した中央/辺境、ヤマト/異族の対立の構図の復元でしかない。だからゴジラに対しては無力だった自衛隊(中央=ヤマト)でも、ラドンとバラン(クマソとエゾ)には勝利できたのだ、ということだ。

この説明はとても分かりやすく、『ラドン』の最期の悲しみを増大させる効果さえある。縄文に郷愁を抱く人が聞けば、『ラドン』の最期で思わず流す涙の量が2倍3倍になるだろう。ぼくもそうだ。
だが、(ケチをつけるつもりではないが)この説明は、少なくとも『ラドン』については無理がある。赤坂先生は『ラドン』は「なかなかの傑作」だとし、『バラン』をずばり「駄作」だと言うが、先生の説明は、後発の駄作『バラン』によって補完され、成立している側面があるからだ。

つまり『ラドン』しか観たことがない人には、ラドンがクマソであるということは理解できないということだ。後続のバランが、東北の辺境に今なおエゾとして暮らす人々の「神」だったから、さかのぼってラドンを「クマソ」と見ることができるというわけだ。


そもそも『空の大怪獣ラドン』でラドンは、一貫して2億年の時を超えてよみがえってしまった「動物」として描かれた。ラドンにゴジラのような「神性」が存在しないことは、ラドンが放牧中の牛や羊のみならず、どうやら阿蘇の観光客まで食べてしまったことだけでも明らかだろう。ラドンは腹を減らしてエサを求める「動物」でしかなかった。

それに、ラドンの行動には目的や意味というものもない。
ラドンの第1回目の飛翔は、福岡ー北京ーマニラー沖縄を一周したのち阿蘇に戻るというコースだったが、その間ラドンはひたすら飛んでいただけだったと思われる。ただ、その音速を超える飛翔から発生する「ソニックブーム」と呼ばれる衝撃波が、人間社会に被害を与えてしまっただけのことだ。

2回目の飛行も同じく意味を持っていない。今度は阿蘇から佐世保に向かったラドンは、自衛隊の攻撃を受けて傷ついてしまう。必死で追っ手から逃げるラドンだったが、ついに福岡で疲れ果て、休息を求めて着陸する。この時ラドンの羽ばたきによって、博多の街に大きな被害がでる。が、ラドンはただ羽を休めようとしただけで、ゴジラのように放射能熱線を吐いて暴れ回ったわけではない。

そしてラドンはその最期まで、あくまで「動物」として扱われた。ラドンの動物としての「帰巣本能」に目をつけた人間側は、ラドンの住処を阿蘇山の人工的な噴火によって封印しようとする。ラドンはいったんは巣を離れようとするが、噴火による高温のせいか、それとも何かを悟ったのか、燃える阿蘇に身を投じるようにして滅んでいく・・・。

という具合に、『ラドン』単体から、そこに「クマソ」を読み取ることはほぼ不可能だ。ラドンはただの「動物」で、その行動には何の意味も織り込まれてはいない。
ただし、そうは言っても、それが『ラドン』の値打ちを下げるものではないことは強調しておきたい。『ラドン』はむしろ、ラドンの無内容さによって、ゴジラとはまた別の意味を怪獣に与えた始祖だと言えるからだ。

「ラドンが生きている限り、我々は文句のもっていき場のない被害を被らねばならないのです」

劇中の自衛隊幹部のこの発言こそは、恐怖の対象であるはずの怪獣に初めて、日本人が好む無常観や憐憫の情が投影された瞬間だろう。生きているだけで排除されなければならない命とは何なんだと。


繰り返しになるが『ラドン』はその2年後に『バラン』が公開されたことによって、ようやくそれが「クマソ」の寓話であることを含むことができた。これは『ゴジラ』の時点では何の意味もなかった「大戸島」が、『ゴジラの逆襲』の「岩戸島」との対比によって、それが「異界」との境界にある「扉」であることが示されたのと同じ展開だ。

しかし、そのような重要な意味を『ラドン』に与えた『バラン』自体は、かなりの駄作だった。その理由は、赤坂先生が言うように、今や陳腐化した単純な対立構造(中央/辺境や自然/科学など)を物語の基底に置いてしまったことがあるだろう。

そこにさらに加えるなら『バラン』が『ゴジラ』の完全な二番煎じになっていることも、その原因と見ていい。
いずれも生き残っていた恐竜の末裔であり、「神」として畏敬され、遠ざけられていた。しかし人間の近代文明の侵入に怒り、人間による祭祀を踏みにじると、東京に向かった。
基本的なストーリーはだいたい一致している。

ところが悲しいかな、バランにはゴジラがもつ「被害者」としての側面が全くなかった。バランは最初から最後まで、一匹の恐竜として存在した。だから、せっかく「婆羅陀魏山神(バラダギ)」なんて意味ありげな「神」として設定しておきながら、その行動はラドン同様、無意味で無内容なものに終始してしまった。

全ての怪獣に深い愛情を示す作家の八本正幸さんは、それでも『怪獣神話論』のなかで「羽田空港に上陸しつつも、都心部を襲撃することなく息絶えるバランは、どこか中央集権制への異議申し立てに現れた少数民族の代表という趣があり・・・」と評価しているが、当のバランがその少数民族の集落を破壊してしまっているのだから、かなり苦しい応援演説だと言わざるをえない。


ぼくは、ラドンとバランに、ゴジラのような「神性」が宿らなかった原因の源流には、原作の黒沼健の資質があるような気がしている。『ラドン』の監督は本多猪四郎、脚本は村田武雄(+木村武)で『ゴジラ』と同じ顔ぶれ。原作が香山滋から黒沼健に代わっただけで怪獣から「神性」が消えたなら、その理由を黒沼健に求めるはごく自然な成り行きだろう。もちろん、黒沼ラドンが怪獣を徹底して「動物」として扱ったことで、『ラドン』がゴジラにはなかった別の「怪獣の意味」を創設したことは評価すべきことだとも思う。

ただ、ここで気になるのが『大怪獣バラン』では、黒沼健は原作ではなく「原案」とクレジットされているということだ。原作の場合は、香山滋の小説のように、ほとんど映画そのものという仕事を指すのだろうが「原案」はどうだろう? おそらく最初のアイデアくらいを言うのではないか? 『大怪獣バラン』でいえば、(ゴジラのような)怪獣が東北地方の秘境から出現し(ゴジラのように)東京を襲う、という具合に。

では、もしも「原案」がそれくらいの仕事であるとしたら、『大怪獣バラン』のストーリーの細部を考えたのは誰か。それは言うまでもなく「脚本」の関沢新一ということになるだろう。


ぼくは1962年から復活したゴジラシリーズは、関沢新一という人が、香山滋の言った「別の意味の『ゴジラ』」を順次、構築していった仕事だと考えている。その仕事の内容については追々書いていくつもりだが、とにかく、この『バラン』を関沢新一がかなりのウェイトを占める作品だと捉え直した時、実は1962年以降の関沢ゴジラに似た仕事がここにもあることに気がつく。
それは、なぜバランが羽田空港を襲ったのか、だ。


自衛隊の攻撃によって長年の住処(北上川上流の岩屋部落近辺にある湖)を追われたバランは、その飛行能力で東の方角に逃げていく。続いてバランは太平洋銚子沖に現れ、そこでも自衛隊による攻撃を受ける。バランはどういうつもりか飛行能力は使わず、ひたすら東京を目指して泳いでくる。やがて羽田空港に上陸したバランは、自衛隊による一方的な攻撃を受け、多少の破壊は成し遂げたものの、最後は口から特殊爆弾を入れられて爆死する・・・。


このように、基本的な立場としてはバランもラドンと大体同じだ。人間が近づいて来たから彼らは結果的に人間に被害を与えてしまったし、彼らの動物としての巨大さと頑丈さ自体が人間にとっての迷惑である点で。

明らかに違うのは、ラドンが追われるものとして福岡に飛来したのに対し、バランは自ら東京を目指したということだ。しかも、飛行能力は使わず、わざわざ海から上陸して。
バランが初期の設定にこだわらず、あえてゴジラの模倣を行ったことは明白だろう。
ではなぜバランは、ゴジラを思わせる海からの侵攻の末、羽田空港に上陸したのだろう?


『ゴジラ』で、ゴジラが東京湾に侵入したことによって起こったこととは何だったか。
それは東京への海路の封鎖だった。ゴジラ接近によってまず発生した被害が、海路における東京の孤立だった。『バラン』では省略されているが、同様な措置がとられたことは常識の範囲内だろう。

続いてバランが狙ったことは、言うまでもない、空路における東京の孤立だった。この時バランがもしも羽田空港の破壊に成功していたなら、東京の海と空は完全に封鎖されることになっただろう。
そしてここで、そもそもバランが何によって目覚めさせられ、怒り狂ったのかを思い出す必要があるだろう。それは、自らの聖域にズカズカと踏み込んでくる近代文明の騒音(ジープ)だったはず。

バランの行動には、その近代文明をこの国にもたらした欧米との接点自体を、根本から断ち切ろうとする意識があるように、ぼくには思える。それ以外に、なぜバランが羽田空港を狙ったかの理由が、ぼくには思いつかない。


で、このように考えてみると、バランの羽田襲撃が、実はゴジラによる東京湾侵入の意味をしっかりと踏まえたものであることが分かる。そしてぼくがそれを関沢新一の仕事だと思うのは、これから先に展開される関沢ゴジラシリーズがまさに同様に、意味の拡大によってより大きな意味を生み出していく過程だったと考えているからだ。

つづく