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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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超人バロム・1 正義のエージェント

マッハロッド

ここまでで見てきた通り、昭和30年代のヒーロー番組の「正義」とは、実は視聴者であるぼくらの中に存在するものだった。月光仮面ハリマオは、そのぼくらの中の「正義」に「味方」する者だった。
と、十分な確認をした上で、いよいよぼくらが自己形成期に楽しんだ70年代ヒーロー番組の検証をしていきたい。
すなわち、70年代ヒーローの「正義」とは一体どのようなものだったのか、だ。

『仮面ライダー』を大ヒットさせた平山亨プロデューサーのグループ。彼らが次に手がけた作品は、さいとう・たかを原作の『<超人バロム・1』だった。
『超人バロム・1』は次のようなナレーションで幕を開ける。

大宇宙・・・。その中で、何千年もの長い間、二つの力が戦い続けていた。一つの力は平和と正義を代表するコプーと言い、今ひとつは悪とのろいの力であるドルゲ! 
激しい戦いは続く・・・。そして悪の力ドルゲはついに地球に達した。ドルゲは地球の地底奥深く住み処を求めて、人間では行くことのできない地下にその根城を作り上げた。
そしてある日・・・悪の力ドルゲは、地上に向けて行動を開始した!


そうして地上に現れたドルゲは、「正義を憎み、愛を呪い、善なるものをあざける悪!ドルゲ」と自己紹介すると、木崎という学者を捕まえて「悪のエージェント」オコゼルゲに仕立て上げる。
一方、同じく地球に降りてきたコプーは、白鳥健太郎、木戸猛という二人の小学生に「わがコプーの力」を与えて「正義のエージェント」バロム・1にすると、「悪なるドルゲと戦うのだ」と命じるのだった・・・。


この『超人バロム・1』が、同じく1972年4月に5日遅れでスタートした『ウルトラマンA』と、極めてよく似た世界観を持つことは一目瞭然だろう。
地球人類には与り知らぬ領域で展開されている「善」と「悪」の長い戦闘の歴史があり、その「悪」を追って「善」が地球に来訪する。「善」は特に根拠らしき根拠も示さないまま、二人の人間を選んでその力を分け与え、合体変身をさせる。なお、「善」がどのように「善」であり、「悪」がどのように「悪」なのかの説明は特になされることはない。いずれも「絶対善」であり「絶対悪」の存在だ。

そしてこの世界観の中では、ヒーローは「正義のエージェント」と呼ばれる。彼らは「善」or「正義」そのものであるウルトラやコプーの代理人となって、「悪のエージェント」のヤプール超獣やドルゲ怪人と戦う。

それでは、この時「正義」は一体どこにあるというのか。
言うまでもなくそれはウルトラやコプーにあるのであって、ぼくらの中にあるものではない。
ぼくら民衆は言ってみれば、子どものように無垢で純粋な存在だ。前提として「善」であり、弱者でもある。
戦闘はぼくら民衆の外部で行われており、ぼくら民衆自身が「悪」と戦うわけではない。
つまり、ぼくら民衆にとっては、ウルトラやコプーの戦いは「他人事」だということだ。

この民衆のあり方は、よく考えてみるとかなり異様だ。
脅威にさらされている当の本人たちは何もせず、まるで無防備な赤ちゃんであるかのように自分たちを捉えている。そして「正義」も「悪」も、自分たちとは別の場所に置いたまま、一切関与しようとはしない。まるで、純粋無垢な自分たちが「悪」に染まらないように「正義」が保護するべきだ、と言わんばかりだ。

この異様な発想はどこから来るものなのか。
戦闘とは自分たちの外部にあるもので、自分たちが関与するものではない。これはおそらく、憲法9条に基づく発想だろう。日本人にとっては、朝鮮戦争もベトナム戦争も「他人事」だった。朝鮮やベトナムでどれほど人が死のうが、日本が平和ならそれでいいじゃないか。
そして民衆とは純粋無垢で善なる者だ。だから悪しき軍部によって民衆はだまされて、あの戦争に参加させられてしまった。民衆は悪くない。だました軍部が「悪」なのだ・・・。

・・・というような朝日新聞的な発想が、「正義」と「悪」を民衆から切り離し、それぞれのエージェントに代理戦争をさせるという異様な物語を生んだようにぼくは思う。もちろん、もともとの朝日新聞的発想では、民衆から「悪」だけを切り離したかったのだろうが、そうなるとあの戦争での民衆こそが「悪のエージェント」だったことになってしまう。ならば、いっそのこと「正義」さえも民衆から取り上げて、純粋無垢な赤ん坊にしてしまえばいい。ぼくらはただ、「正義」の勝利を願ってだけいればいいのだ。

昭和30年代にはまだ民衆の中に民衆とともにあった「正義」は、1972年の『バロム・1』『ウルトラマンA』の頃には「正義のエージェント」のものになっていた。民衆は「正義」の主体ではなく、「正義」の代理人を応援する観客に成り下がっていた、ということになるだろう。

あるいは、それぞれのエージェントによるこの闘争を、当時の二つの超大国による冷戦のメタファーであると見る向きもあるかもしれない。そして、その場合の「正義」がアメリカ合衆国側であることに異論を唱える人はまずいないだろう。

実は、そうして「正義」をアメリカだと考えたとき、上述の話はいくらかでも説得力が増してくる。
というのも、敗戦後の日本で、真っ先に軍部と民衆を切り離していったのが、他ならぬアメリカ(GHQ)だったからだ。

その集大成ともいえるのが、いわゆる東京裁判。
すなわち、自虐史観(東京裁判史観)の根源だ。

つづく


似たもの同士の『バロム・1』と『ウルトラマンA』だが、どちらが先かと言えば、1970年に原作劇画が発表された『バロム・1』の方だ。『ウルトラマンA』には、ヤプールが人間の邪悪な心につけ込んで超獣を出現させるエピソードがあるが、『バロム・1』にも強盗殺人犯の凶悪な心をドルゲが利用するストーリーがある。考えることはみんな一緒、というところだろう。

なお、さいとう・たかをの原作では、二人の少年が合体すると、一人のおじさんになる。
かぶり物ヒーローに飽き飽きという人は是非ご一読を(新鮮かつ笑えます)。


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