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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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スパイダーマン アメリカの正義

アメリカン・ヒーロー

話を先に進める前に、このカテゴリの補足として、アメリカのヒーローものについて少し触れておきたい。

70年代の日本のヒーロー番組のほとんどは、まず「悪」ありきだったが、アメリカのヒーローは全くの逆で、まず「正義」ありきのようだ。それは当たり前と言えば当たり前のことで、そもそもアメリカという国は理念から生まれた人工国家なんだから、アメリカ人がアメリカ流・アメリカ式で生きること自体にアメリカの「正義」がある。それを具体的に言うにはぼくの知識が不足しているんだが、おそらく自由だとか平等だとか、いわゆる「民主的」とされることから思いつくことを挙げるだけでも、ある程度は十分なのではないかと思う。

ではそんなアメリカンヒーローが戦う「悪」とは何か?
ぼくが知っているアメリカンヒーロー(スーパーマン、バットマン、スパイダーマン等)を見る限り、それは犯罪者だ。特に、個人の力ではどうにもならない大きな力を持つ犯罪者が、ヒーローが戦う「悪」だ。

ただ、そんな犯罪者も、元を正せば普通のアメリカ人だった。
それが自分の欲望をどんどん肥大化させていった結果、巨大な力を得てしまった、というパターンが多い。これは「成功」自体を否定しないアメリカ流・アメリカ式の負の側面とも言えるものだろう。
つまり、アメリカンヒーローが戦う「悪」とは、アメリカ人が持つ内なる願望の悪しき現れ、という形をとっていると見ることもできる。

「正義」であるはずのアメリカ流・アメリカ式から「悪」が生まれたとき、ヒーローがそれを叩きに行く。その動機は、映画『スパイダーマン』に出てくる次の言葉が端的に表していると言われるようだ。

大いなる力には、大いなる責任が伴う (With great power comes great responsibility)

アメリカという国は、やたらと世界中にアメリカ式を押しつけたがるおせっかいな癖があるが、それを彼らは「大いなる責任」だと勘違いしているのかもしれない、と思いたくなるようなセリフだ・・・。

と言うような皮肉はともかくとして、アメリカンヒーローが「悪」と戦う動機は、彼らの「責任感」にこそあった。アメリカがアメリカであることによって生んでしまった「悪」(犯罪)を、アメリカ自身の責任によって討つ。
これはさかのぼれば、西部開拓時代から現代に続く保安官制度に見られるような、あるいは個人の銃保有に見られるような、自分の身は自分で守るというアメリカ人の自警的な思想が背景にあるのだろう。実際、『バットマン』はたった一人の自警団の物語であり、バットマンは彼の住むゴッサム・シティからほとんど外には出ていない、とか。


さて、そんなアメリカンヒーローの一人であるスパイダーマンは、1978年に日本の東映の手で特撮ヒーロー番組として制作・放映された。この日本版『スパイダーマン』は、ヒーローのルックスだけはアメリカ製と同等のものだったが、舞台設定その他ほとんどは日本流に改変されている。
この両者の違いは実に興味深いものだ。

まずアメリカ版では、普通の高校生ピーター・パーカーがたまたま運悪く(?)特殊なクモに噛まれてしまい、遺伝子に変化をおこして超人的な身体能力を手に入れてしまうことから物語が始まる。ピーターはその能力をくだらない私欲(2002年の映画ではプロレス)に使っていたが、ある事件をきっかけに自分の責任に目覚め、街にはびこる凶悪犯罪と戦う決意をする。

同じ頃、軍需産業での成功を目論むオズボーンは自らが開発したパワー増強剤の実験を自らに果たし、こちらも超人的な肉体を得ていた。やがてオズボーンの深層心理に潜んでいた凶悪な野心が彼を支配するようになり、オズボーンは怪物になっていく。オズボーンは目障りなスパイダーマンを仲間にしようとするが、ピーターは拒否。ふたりの激突が始まった・・・。

というようなアメリカンヒーローは、日本に輸入されると以下のように姿を変える。

スピードレーサーの山城拓也は、高名な科学者の父を研究成果の悪用を目論む異星人のモンスター教授に殺された。故郷を滅ぼされて教授を追って来たが力尽きたスパイダー星人・ガリアから、蜘蛛の能力を与えられて、超人・スパイダーマンとなり、仇である教授が率いる鉄十字団と戦う。(Wikipediaースパイダーマン(東映)から引用)


例によって、宇宙には「鉄十字団」という「悪」と、「スパイダー星人」という「正義」の戦いがあり、主人公の山城拓也はその「正義」によって特殊な力を与えられたエージェント、というスタイルをとっている。『仮面ライダー』以来の、東映王道パターンの踏襲だ。
「悪」も「正義」も、ぼくら民衆の中にはなく、その外部に存在する。そしてエージェントである主人公の動機は、「悪」への復讐だ。

アメリカ版ではいたって単刀直入に、市民の中にあるアメリカ流・アメリカ式という「正義」の味方だったスパイダーマンが、日本に来るやいなや「正義のヒーロー」となって世界征服を狙う悪の軍団と戦いはじめる・・・。

こうなってみれば、もはやこう結論づけるしかないだろう。
日本には、スパイダーマンが味方すべき民衆の「正義」が存在しないのだと。だからスパイダーマンは仮面ライダーたちと同じように自分自身が「正義」であると主張するしかなくなったのだと。

しかしここでスパイダーマンが元はアメリカ出身のヒーローであることを思い出すと、彼が日本に来るなり「正義のヒーロー」「正義のエージェント」に変化したことは、ごく自然な成り行きだったのかもしれないと思えてくる。
なぜなら、まさしく戦後日本の「正義」とは、アメリカの「正義」に他ならないからだ。スパイダーマンはアメリカの「正義」のエージェントとして来日し、アメリカ化した現代日本を守っている。そして彼の敵は、世界征服を企む「悪」の軍団、大日本帝国・・・。

アメリカvs大日本帝国の戦いに、ぼくら現代日本の民衆が参加できるわけがない。なにしろ「悪」は日本の”過去”という亡霊だ。
いや、参加している日本人もいたな。アメリカ側に味方して、日本の過去を攻撃する人は大勢いた。日教組がそうだし、朝日新聞なんかもそうだ。要するに、東京裁判を起点とする自虐史観や戦後民主主義を支持する人たちはみんな、アメリカの「正義」の味方だった。

そしてこれまで散々見てきた通り、ぼくらが幼少時に熱中したヒーロー番組の多くも、やはり日教組や朝日新聞と同じ立ち位置から、日本の過去と戦う人々だった。とぼくは考えている。

つづく


なお、東映版『スパイダーマン』は作品を観るヒマがないので、すべてWikipediaの記述を元に書きました。1978年にもなると、もうヒーロー番組を観るような年齢でもなく、また今さらリアルタイムで観てなかった作品を観る気もなく、全体としていいかげんな記事である可能性があります。悪しからず。


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