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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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ここまでのまとめ

修身書

<お断り>以下の記事は、長いばかりで何も目新しい内容がありません。時間のない方はスルーしてください。


これまで見てきたように、『仮面ライダー』等の70年代ヒーローはいくら応援しても「正義」を愛する心が芽生えることはなく、むしろこの国の歴史を恥じ、愛国心を失わせるように機能する作品が多数を占めた。簡単に言えば、それらはぼくらに自虐史観を植え付ける洗脳装置として機能するケースが多々あった。

もう一度、そこらへんを整理しておくと、まず日本の70年代ヒーロー以外のヒーローについて言えば、

◎アメリカンヒーローの場合
 悪=人間の肥大化した欲望が生む犯罪(邪悪化したアメリカンドリーム)
 正義=アメリカの理念(アメリカ独立宣言など)
 ヒーロー=アメリカの理念の実行者、またはその味方

◎忠臣蔵の場合
 悪=腐敗した政治
 正義=武士道(江戸期の葉隠的な意味で)
 ヒーロー=武士道の実行者、またはその味方

◎大正生まれが作ったヒーロー(月光仮面、快傑ハリマオ)の場合
 悪=犯罪
 正義=「修身」的な倫理
 ヒーロー=修身的倫理の実行者、またはその味方

かなり大ざっぱだが、こんなかんじになると思う。
ポイントは、いずれも「正義」が明文化された倫理、理念、規範であって、人々に広く共有されているという点だ。そしてヒーローとはそれらの実行者であり、かつそれらの味方でもあった。
つまり、上記のどのケースであっても、まず「正義」が先にあり、そこから逸脱したものが「悪」だとされた。

それが1971年の『仮面ライダー』では、企画段階で市川森一によって、まず「悪」が規定された。

「正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです」(『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』より)


これをまとめればこうなる。

◎仮面ライダーの場合
 悪=人間の自由を奪う奴(ショッカー)
 正義=人間の自由
 ヒーロー=人間の自由を守る者

また、同じく市川森一がメインライターを務めた『ウルトラマンA』ではこうなるだろう。

◎ウルトラマンAの場合
 悪=平和を乱す侵略者(ヤプール)
 正義=地球の平和
 ヒーロー=地球の平和を守る者

なんとなく上の方の3つのヒーロー像と似たような構造に見えるこれら70年代ヒーローだが、よく見ると「正義」の部分が全く異質であることが分かる。70年代ヒーローが「正義」だとする「自由」と「平和」は、単に人間や社会のおかれている「状態」のことであって、理念や倫理ではない。要するに、他者に拘束されていない状態が「自由」であり、戦闘の行われていない状態が「平和」だと言うだけのことだ。

これはおよそ「正義」とは程遠いものだとぼくは思う。
例えばWikipediaの「忠臣蔵」の項にはこのような記述がある。

「第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、『忠臣蔵』事件を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとして(仇討ちという復讐の物語であるため)当事件を題材とした作品の公演、出版等を禁止した」


「忠臣蔵」の「正義」と、アメリカ建国以来の「正義」は互いに相容れることはない。
このように「正義」というのは本来激しくぶつかり合うもので、ばくぜんとした「状態」を指すものではないだろう。

さて、そう考えてみると、仮面ライダーやウルトラマンAの場合の「正義」は、実際には空欄ということになってしまう。彼らは「正義」と言い切れるだけの理念や倫理を何ら示すことはないのに、「正義のヒーロー」を自称していることになってしまう。

そこにメスを入れたのが、怪獣ジャミラが登場する「故郷は地球」などで有名な脚本家、佐々木守だろう。
1936年生まれの佐々木守は、戦後日本の「正義」を「戦後民主主義」に求めた。

「日本の敗北を体験した僕には『戦後民主主義』は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった」(「佐々木守シナリオ集・怪獣墓場」あとがき)


個人が全てに優先されること。これが佐々木守の考える「正義」だった。
だから佐々木守が書いた『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」では、ウルトラマンのほうが悪役に描かれた。

◎「故郷は地球」の場合
 悪=個人を抑圧し排除するもの(国家権力、科特隊、ウルトラマン)
 正義=個人が尊重されること
 ヒーロー=???

もちろん、ウルトラマンがいつでも「悪」だと言うのではない。時と場合によっては「正義のヒーロー」は国家を守るために個人を見捨てる可能性があり得る、という極端な一例が「故郷は地球」だということだ。
となれば、70年代的な「正義のヒーロー」とは、「戦後民主主義」の実行者でもなければ味方でもないことになり、依然として「正義」の空欄は埋まらない。
しかも「自由」や「平和」はたんなる「状態」を指すもので、倫理や規範ではない。自分がいくら努力をしたところで、北朝鮮の工作員に拉致されれば自由を失うし、ミサイルを撃ち込まれれば平和も失う。
つまりは、自由も平和も相手のあることで、その相手の行為が問題になる。すなわち「侵略」という行為だ。

結論としてはこうだ。

◎仮面ライダー、ウルトラマンAの場合
 悪=侵略
 正義=???
 ヒーロー=悪と戦うこと

そして、ここから無理矢理に「正義」を導き出すなら、それは侵略という「悪」を憎む心、ということになるだろう。

それにしても、なぜこうも「世界征服を狙う悪の侵略者」ばかりと70年代ヒーローたちは戦うのか?
ヤプール人、ショッカー、デストロン、ドルゲ、血車党、ファントム軍団、インベーダー、超能力者ヨミ、デーモン族、黒十字軍・・・・。
繰り返しになるが、アメリカンヒーローも月光仮面もハリマオも、主に戦った相手は犯罪者だ。悪党どもは、自分の金銭欲や所有欲のために殺人や破壊を行うのが常だった。ここにはそれなりのリアリティがある。

が、「世界征服」のリアリティのなさはどうだろう。
「世界」にはアメリカやソ連だって含まれるのに、そんな国々までがまったくの無防備にショッカーやデストロンの侵略を受けるなどとは、子どもでも思わないだろう。アメリカやソ連はもちろん、ドイツにだって外敵と向かい合うための軍隊があり、諜報機関もある。だから結局のところ「世界征服」とは言いつつも、それは日本の中だけの話でしかない。

戦後の日本社会にだけ存在する、この「世界征服」のリアリティ・・・。

その根底には、かつての日本が侵略戦争を起こした犯罪国家だという自虐的な歴史観があると思う。この大日本帝国の「悪」を憎む心、それこそが70年代ヒーローの「正義」だ。70年代ヒーロー番組とは、「悪」の大日本帝国の野望を「正義のヒーロー」が叩きのめすという、一種の歴史再現劇だったのだ。
と、ぼくは思う。

だから『仮面ライダー』等の70年代ヒーロー番組は、観れば観るほど自虐史観の思考回路に同調するように機能するし、本当の意味での「正義」を愛する心が芽生えるわけじゃない。そこに、人はこう生きるべきだ、という倫理や規範、理念は存在しない。自由でありたい、平和でありたい、という他力本願の(憲法9条的な)願望があるだけだ。

そして、自分は願望を持つだけで実際に「悪」と戦う主体ではない、という日本人の変テコな発想が生み出したものが、超人バロム・1に代表される「正義のエージェント」というヒーロー像だろう。バロム・1は二人の日本人少年が合体して変身し、事実上日本だけを守っているヒーローであるにも関わらず、正義の「代理人」であると言う。

この設定は、原作者さいとう・たかをの慧眼だとぼくは思う。
さいとう・たかをは、おそらく戦後の日本の「正義」が、ぼくらの生きる日本の外部に存在することを見抜いていたのだろう。バロム・1はその外部にある「正義」から「正義」を委託されたヒーローなのだ、と。
もちろんその「正義」とは、大日本帝国を滅ぼしたアメリカの「正義」だ。

そして1970年代前半というのは、そのアメリカの「正義」が揺らいだ時代だった。
泥沼化するベトナム戦争と、ドルショック。
アメリカの「正義」の担保であった軍事力とドルが、まさに敗れ去ろうとする時代だったからこそ、アメリカと「正義」を共有する(させられている)日本で、あれほど沢山の「正義のヒーロー」が生まれた可能性がある、とぼくは考えている。
が、その話題はまたいずれ別の作品を取り上げる時に、もう少し詳しく考えてみたいと思う。



まとめ、と言いつつダラダラと長話になってしまったが、話を元に戻すと、70年代ヒーロー番組が我知らずに持ってしまった自虐史観増幅装置という側面は、実のところ「世界征服を企む軍団」という悪役を、あいまいな「悪」のイメージとして設定してしまったことに起因する。だからそれらは、実際の歴史に実在した大日本帝国の物語と容易に結びついてしまった。
もちろん、作り手にそういう意図があったわけではないだろう。平山亨プロデューサーの自伝を読んでも、「正義のヒーロー」像の構築にかけた情熱は伝わってくるが、悪の軍団についての言及は驚くほど少ない。

これは勝手な想像だが、悪はショッカー的な侵略者ってことでいいでしょ、子どもにも分かりやすいし、シリーズ化が楽だしね! てなところだったのではないか。それが子どもたちに、本当の意味での「正義」を見失わせ、国を愛する心を捨てさせる効果に繋がる可能性があるなど、考えもしなかったことだろう。

つまり、問題は「悪」の設定にこそある。
ここをちょっといじるだけで、『仮面ライダー』は自虐装置ではなくなる。
それを実証したのが、『仮面ライダーX』(1974)だ。

つづく


ちなみにWikipediaによれば「戦後民主主義」の根幹である(とぼくが思っている)憲法13条には、アメリカ独立宣言の影響が見られるとのことだ。

「第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」



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