レインボーマン(3)ダイバダッタ

常軌を逸した修行のようす

レインボーマン』(1972年・東宝)の特徴を一言で言えば、それは「リアリズム」だと言えるだろう。

悪役の「死ね死ね団」のリアリティについてはすでに書いた通りだが、ヒーローの側も、その生い立ちから家族構成、恋人や親友、世話になっているご近所さんまでを、事細かに描いている。

それはまさに、そういったヒーローを取り巻く多くの人々こそが、このヒーローが守ろうとしているものに他ならないからだろう。レインボーマンは「世界の平和」やら「人間の自由」というような、耳障りだけはいいが他人事にも聞こえる、空虚で漠然としたスローガンのために戦っているわけじゃない。今すぐそこにある危機に対し、とりあえず自分に近いところから守っていこうとしているだけだ。

だからレインボーマンは、その必要があるのなら大臣にだって会いに行く(首相と思われる)。

第2クールで死ね死ね団が仕掛けた「M作戦」は日本経済に未曾有のインフレをもたらし、食料価格が高騰。人々は飢えに苦しんだ。だが、この非常事態に、”ヒーロー”は無力だった。彼にできることは大臣に掛け合い、涙を流して人々の困窮を訴え、国の食糧備蓄の放出を直訴することだけだった。

さて、そんなレインボーマンに変身するのは、ヤマトタケシという名の青年だ。

タケシは城東高校に通う学生で、学校ではレスリング部に所属、「下町の黒豹」と呼ばれる猛者だ。タケシには、「おふくろ」というおにぎり屋を営む母たみと、足の悪い小学生の妹みゆきがいる。みゆきはタケシの不注意から交通事故にあってしまったので、タケシはいつかは自分の手でみゆきの手術代を稼ぎたいと思っている。

タケシの父、ヤマト一郎は新聞記者だったが、10年前に東南アジア方面に取材に出たまま行方不明になっている・・・。

以上が主人公ヤマトタケシの家族構成だ。
続いては、そんな普通の高校生がレインボーマンになるまでのいきさつ。

タケシのレスリングの実力は群を抜いており、関東大会では「必殺回転落とし」を連発して弱小城東を準優勝に導いた。しかしその必殺技は大会中に4人もの負傷者を出しており、危険過ぎるという理由でタケシはレスリング部を追われてしまう。怒ったタケシは高校を中退し、プロレスを志す。しかし超高校級の実力も、プロでは全く通用しなかった。失望するタケシに、先輩の堀田がある新聞記事を見せる。そこにはヒマラヤの奥地に住むヨガの行者、ダイバダッタの写真があった。

タケシはプロレスラーに必要な体と技を身につけるため、ダイバダッタへの師事を目指してインドに旅立つ。いろいろあって運良くダイバダッタに弟子入りできたタケシだったが、修行は一向に進まない。
焦るタケシにダイバダッタは言う。

「お前がここに来た目的はプロレスラーになるため。しかし本当の目的は、妹の足を治すためだったはず。それがいつの間にか、おのれがプロレスラーになろうとばかり考えて、私利私欲のとりことなっておる」

タケシも反論する。
「ああ、俺だって人間だ、若いんだ。金も欲しいし、名声だって欲しいんだ。それのどこが悪いんだ」

それを聞いたダイバダッタはタケシを連れて、印パ戦争のまっただ中に降り立つ。そして戦場に放置された数十体の死体を蘇らせる。このダイバダッタの奇跡の力と如来の心にタケシは驚く。

「この術さえあれば、みゆきの足を直してやれる」
タケシの修行はついに本格化し、厳しい修行が続いた。

歳月は流れ、ダイバダッタがこの世を去る日がやってきた。
ダイバダッタは泣き崩れるタケシに、お前はレインボーマンになるのだと言う。
そして「勇気をもって東方の光となれ!」と言い残すと、激しい落雷とともに、ダイバダッタの魂はタケシに乗り移る・・・。


レインボーマンが、仮面ライダーをはじめとした他の特撮ヒーローたちとは全く異なる点は、この「修行」にある。タケシは本人が逆ギレして叫んだとおり、煩悩にまみれた普通の人間であって、改造人間でもなければ人造人間でも超能力者でもない。さらにこの「修行」はあくまでタケシの任意であって、誰にも強制はされていない。

つまりレインボーマンとは、凡百の普通の人間が、自由意思と過酷な訓練によって、空中飛行すら可能とする驚異的な力を身に付けたヒーローだということだ。

というと、例えば自ら志願して改造手術を受けた仮面ライダーV3などはどうなるんだ、という話になるかもしれないが、V3=風見志郎にはデストロンに殺害された家族の復讐、という個人的な欲望があった。

ならば、レインボーマン=ヤマトタケシにも、妹の足を「術」で治療するという欲があるのではないか、と疑う人もあるかもしれないが、これは違う。

そもそも、どうしてタケシの妹は足が悪くなくてはならなかったのか。

帰ってきたウルトラマン』では、実兄の坂田健の足が悪いことによって、坂田次郎少年が、他人である郷秀樹に「父性」を求めるという展開が見られた。登場人物の足を折るという設定には、大抵の場合、本来の自然な物事の流れを阻害し、支流に誘い込むような意図がある。

『レインボーマン』においてそれは、主人公ヤマトタケシが自分の力を「私利私欲」のために使っていないかをチェックする装置として機能した。

つまり、ヤマトタケシは『レインボーマン』全52話の最後の最後まで、レインボーマンとしての力で妹みゆきの足を治そうとはしなかった。『レインボーマン』最終回は、手術のためにみゆきが乗る外国へ向かう飛行機を、その直前まで死ね死ね団の残党と戦っていたタケシが、必死の飛行術でかろうじて見送るシーンで幕を閉じるのだった。

そしてそのチェック機能は、さらに究極の選択をタケシに迫った。

第26話で、タケシはついに探し求めていた父、一郎と再会するが、それは死ね死ね団のアジトの中だった。協力してミスターKを追うヤマト親子。しかし何ということか、一郎は敵の放った銃弾に倒れてしまう。ようやく会えた父。妹みゆきは父の顔さえ知らない。会わせてやりたいと思うのが、兄としての人情だ。そしてレインボーマンの力は(時間はかかるものの)死人を蘇生させることも可能だった。

しかしタケシは、一郎に
「早くやつを追え!」
と叱咤されると、その声にしたがった。父を置き去りにして、巨悪を追った。

自分の責任で足を悪くした妹をそのままの状態にし、父を見殺しにしたタケシの罪業は果てしなく深い。『レインボーマン』は、”ヒーロー”になることを自ら選択したひとりの青年の、想像を絶する苦痛と苦悩を描いた、壮絶なまでの「子ども番組」だった。

つづく
関連記事