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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

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ヤマタイカの旅 − 沖縄編

金城哲夫氏書斎

このブログの管理人、竹波エーイチが「竹」「波」「エーイチ」のおっさん3人の複合人格であることは既に書いた。
そんなぼくらの愛読書に星野之宣さんの『ヤマタイカ』があって、以前からマンガに出てくる史跡を回ってみたいという計画があった。んで昨年11月、ようやく時間の調整がついて、沖縄行きのJALに乗り込むことができたので、その記録を少々・・・。

那覇到着後、まず向かったのがウルトラ者の聖地、「松風苑」だ。言わずと知れた、金城哲夫先生のご実家で、このブログで散々金城金城言っておいて、今さら初訪問とはお恥ずかしい限り。哲夫先生のお兄様に案内していただいて、生前の書斎を見学、お墓ではないが何となく手を合わせた。
食事は「アグーしゃぶしゃぶ」とビールたくさん。

翌日は雨の中、まずは青山繁晴さんのご著書で知った、「白梅の塔」にお参り。
適当に立ち寄ったビーチで沖縄風ファストフード「てんぷら」を立ち食いしたあと、高校生でごった返す「ひめゆりの塔」は冷やかし程度に済ませ、本日のメイン「斎場御嶽(せーふぁうたき)」へ。

三庫理

斎場御嶽は昨今のスピリチュアルブームとやらで、かなり観光地化されていたが、『ヤマタイカ』でみた風景もそのまま残っていた。
一方、マンガだと「三庫理」の下の洞窟にヤマトの舟が隠されていたが、さすがにそんな洞窟はなかった。
とりあえず、東に見える久高島に向かって、何となく手を合わせた。

なお、これから斎場御嶽に行かれる人へのアドバイスとして、現地NPOのガイドさんは絶対に頼んだほうが良いことを付け加えておきたい。沖縄の宗教の知識がないと、ただの山歩きになってしまうからだ。ぼくらに付いてくれたのは年配の女性だったが、沖縄ギャグ炸裂で、爆笑の連続だった。

斎場御嶽の後は、お世話になっている先生に数年ぶりの挨拶に伺った。『ヤマタイカ』第1章「妣の国」冒頭で、「琉球大学理学部、木村正明教授」として名前だけ登場される先生だが、詳細は省く。

続いて向かったのは、久高島行きのフェリーが出る安座間港。
閑散とした港にはなぜか猫がウヨウヨしていて、ぼくらは猫と海を交互にながめながら、ぼんやりとビールを飲んでいた。今に思えば、喧噪もなく会話もないあの時間帯が、ぼくらが最も沖縄にフィットしていた時だったのかも知れない。

久高島へは小さなフェリーで30分ほど。
海上から見る島は、不自然なほど扁平な姿をしていた。
なぜか虹が、水平線近くにだけ見えた。

唯一空いていた「久高島宿泊交流館」に荷物を降ろした頃には日が暮れていて、ぼくらは道に迷いながら漆黒の中を歩き、「食事処とくじん」に入った。疲れが出てきたぼくはイラブー(ウミヘビ)の料理を注文したが、他の二人はヴィジュアル的にアウトだったようだ。ビールをしこたま飲み、帰り道でも小さな商店でオリオン缶を買い込んで宿に戻る。

久高島7時ごろ

朝の5時。
イラブーのおかげで早起きしたぼくは、一人で日の出を見に行った。
生活ゴミがまったくなくて、人が好む美しい貝殻は大量に残されているという不思議な浜に佇んでいると、気がつけば周りには10名ほどの人々・・・。

『ヤマタイカ』の登場人物、熱雷草作は、沖縄の創世神話について、アマミキヨとシネリキヨの二神、あるいはアマミクという女神の名を挙げて、「その神が東方のニライカナイという永遠郷から来て、あそこに見える久高島を経て、この斎場御嶽に上陸した」と説明した。すなわち、久高島から東方の日の出を見るということは、まさにニライカナイに対面することに他ならない。
やがて雲の隙間から日の出の太陽が輝くと、人々は思い思いに散っていったのだった。


朝食後、ぼくらは自転車を借りて島の探索に出かけた。
50才近いおっさん3人のサイクリング・・・。
東京なら通報ものだろう(笑)。

目指したのは斎場御嶽よりも格が高いと言われる、「クボーウタキ」だったが、途中、やはり聖地の一つである「ヤグルガー」に寄った。神女がクボーウタキに行く前に禊に使う、神聖な井戸らしい。海に面した崖に湧き水の名残があった。
聖地に対する畏れから奥まで行かずに去ろうとしたぼくらだったが、入り口で白装束の老婆を含む数人とすれちがった。本物の「ノロ」だ。
ぼくらは、手を合わせつつも写真を一枚頂戴し、早々に立ち去った。

久高島のノロ

『ヤマタイカ』ラストシーンに出てくる「クボーウタキ」は聖地中の聖地で、当然のことながら立ち入り禁止。
結界の外で写真を一枚だけ失礼して帰路につくと、先ほどのノロが乗ったクルマと又すれ違ってしまった。心の中で先回りの失礼を詫びて、宿に戻る。

驚いたのは、交流館の事務員の女性がノロだったことだ。
「あたしもノロですよ。最年少ですけど。たぶん自分で終わりです。もう数人しかいません」
沖縄信仰の伝統さえ守れずに、なにが琉球王国の独立か、と沖縄メディアに腹が立ったが、きっとそれはヨソ者の感傷に過ぎないのだろうよ。

そういえば、久高島に着いたあたりから、持参したiPhoneが二台とも誤動作を始めたのも不思議な出来事だった。バッテリ残量の表示が狂いっぱなしで、代わりに起動させたiPadも挙動が怪しい。Docomoのガラケーには問題が出なかったので、制作国が気にいらなかったのかも知れない。


本島に戻ったぼくらはクルマを北上させて北谷港の「金松」でビフテキを食い、嘉手納の「道の駅」へ。『ヤマタイカ』では復活した戦艦大和による艦砲射撃で壊滅した嘉手納基地だが、その日、展望スペースから見えたのは巨大な輸送機が二機。しばらく眺める。
それから首里城に向かったが、よく考えたら大して興味がないことに気付き、そこはスルー。
クルマを置いて、国際通りの一本裏の通りの料理屋でビールと海鮮料理を頼んだものの、疲れも出てきて早々とホテルに戻った。おっさんは体力がなくていかんな・・・。
最終日は、公設市場で朝からビールを飲みながら「ゆし豆腐」を食べ、みやげを買い、那覇空港でビールと昼食、ANAで羽田へ・・・。


1986〜91年に執筆された『ヤマタイカ』の史観が古臭いのは重々承知している。
今どき縄文人vs弥生人の対立でもないし、騎馬民族征服王朝説(笑)の影響も随所に見られる。それでも、自虐史観が蔓延していたあの時代に、日本民族とは何かという根源的な問いかけが描かれたことには価値があったとぼくは思う。「火の民族による祭り」という日本史解釈にも感心させられた。

だから、あくまで、今では否定されている史観に基づいた「まんが」として、『ヤマタイカ』は今後もぼくらの愛読書であり続けるだろう。そしてぼくらの旅も、熊本へ、阿蘇へ、高千穂へ、宇佐へ、と続く予定なんだが、それがいつになるのかは、自分たちでも分からないのだ。

つづく

『二つの憲法』井上ひさし

痛快!憲法学

1945年8月、日本はアメリカに敗れ、占領された。
このインパクトは量り知れないわけで、60年代後半から80年代前半のヒーロー物テレビ番組でも、わずかでも政治色があれば「アメリカ」の影が見え隠れした。

ひとつは「アメリカ」を守ろうとした仮面ライダーマジンガーZなど。もう一つが、「アメリカ」と戦おうとした宇宙戦艦ヤマトキャプテンハーロックザブングルなど。そして1979年の『機動戦士ガンダム』で、前者のアムロと後者のシャアが激突した。

しかしそんな「アメリカ」は、日米経済戦争の激化とともに語られなくなり、二度目の敗戦のあとは意識の外に置かれるようになったことは、『エヴァンゲリオン』の記事で触れた。「年次改革要望書」など、目に見えない再占領が行われたのは、ご存じの通り。

一方、同じ頃、元左翼運動家の宮崎駿が「転向」したことは、『ナウシカ』の記事で触れた。理由にはソビエトの崩壊もあるが、それ以上にユーゴ紛争で「民族主義」が選ばれたことが、宮崎に左翼イデオロギーを見捨てさせる原因となった。ナウシカは人間の手によるユートピア(共産主義)を否定し、「シュワの墓所」を破壊してしまう。

そうして90年代後半からは、特撮やアニメからイデオロギーを感じる作品はほとんどなくなった。一部、『ウルトラマンコスモス』や『ガンダムSEED』なども存在したが、それらは物語が進む中で、初期設定のイデオロギーが人々の自然な感情によって否定されていく過程を描いた、ともいえるものだった。

また、ぼくはここ20年にメジャー配給された国産の戦争映画は全部みたと思うが、そこにもイデオロギーは感じられず、ただあの戦争を個人個人がどう生きたか、が淡々と描かれていたように記憶する(自主制作は除く)。

このカテゴリでは、そんな21世紀の作品群から、日本人が自然に持っている美意識や美徳を描いた特撮やアニメを取り上げた。そして驚くべき事に、それら「日本の心」を真っ向から否定し、対立してくるのが「日本国憲法」であることを紹介した。

それはなぜか?
なぜわが国の最高法規が、ぼくら日本人の心を否定してくるのか?


このカテゴリの〆として、その答えを日本を代表する左翼言論人、井上ひさし氏の発言に探ってみようと思う。テキストは、2011年に岩波書店から発行されたブックレット、『二つの憲法』。1999年8月に行われた講座を収録したものだそうだ。

まず冒頭のあたりから、井上氏はいきなり矛盾した話をする。
「押しつけ憲法論」を否定して、良いものは積極的に取り入れるべきだと言いつつ、井上氏は司馬遼太郎の晩年のエッセイ集に言及する。

 『この国のかたち』という表題は、おそらく「憲法」のことだと思います。司馬さんに伺おうと思いながら機会を失ってしまいましたが、『この国のかたち』は憲法の一番正しい定義だと思います。


この指摘に問題はないだろう。辞書を引けば、constitution には憲法の他に、「構成・組織・構造」「体質・体格」「気質・性質」そして「政体・国体」とある。憲法が「この国のかたち」であることは疑いがない。

ところが井上氏はその後、「日本国憲法」の条文の元となった「パリ不戦条約」などを絶賛し、人類の理想を求める叡智の集合体が「日本国憲法」だと謳い上げるわけだ。

だがこれは、明らかに矛盾する発言だ。
「この国のかたち」とは、要は「日本の現実」のことだろう。日本の歴史や文化、伝統などの上に生きている、普通の日本人の集合体が「この国のかたち」のはずだ。
しかし井上氏は、欧米人が、欧米人の都合に合わせて作った法律の条文をかき集めたものが、「この国のかたち」だと言う。

さらには、欧米が「パリ不戦条約」の成立に尽力したかつての日本の働きぶりを覚えていて、「あの頃の平和維持の熱意をもう一度燃やして欲しい」と願って9条が生まれた、とおっしゃるが、「日本国憲法」制定後も、アメリカもイギリスもフランスも、みーんな次の戦争をしていたのはどう説明されるんだろう。

第一次インドシナ戦争
朝鮮戦争
第二次中東戦争

それと、このブックレットでは真ん中の半分くらいが「明治憲法」の批判に充てられていて、なかにはひどい事実の曲解もあって、うわぁ・・・って感じなんだが、これなんかも凄い。

 このように「大日本帝国憲法」は、立憲君主制といいながらそれは見せかけでした。絶対天皇制だった。それは、条文をたどってみればわかる。ですから、この憲法を持つ限り、満洲事変に始まって敗戦に至る日本の行く先は見えていたのではないか。そういう疑問も湧いてきます。


小室直樹先生の『痛快!憲法学』(集英社・2001年)には、「明治憲法」成立の過程が分かりやすく書いてあるが、それを読むと、上記の井上氏の発言は誹謗中傷にしか思えない。

そもそも憲法は、幕末の不平等条約の改訂のために必要とされたものだ。
日本が資本主義の民主主義国でないと、欧米に相手にされない。それで、国民に資本主義の精神を持たせるため、すなわち労働の自己目的化を促進するために設置されたのが、二宮金次郎の銅像だそうな。

ところがここで問題になったのが、民主主義には欠かせない「平等」の精神。
キリスト教では「神の前の平等」があるが、日本にGODはいない。それで伊藤博文らが考えたのが「天皇の前の平等」で、明治天皇がご先祖に誓う形で、ようやく欧米にも認められる憲法が誕生した。と小室本には書いてある。

だから、条文だけ読めば井上氏が「絶対天皇制」とわめくのも詮無いこと。
しかし憲法典で大切なのは条文ではなく運用のはずで、その観点からすれば「明治憲法」を持つ日本は立派な「立憲君主国」だった。それは、君主に「拒否権」がないこと、つまり天皇陛下が内閣の決定に反対できなかったのが「明治憲法」下の日本だったという事実から分かる。

「満洲事変に始まって敗戦に至る日本の行く先」は、少なくとも天皇とは何の関係もない。「明治憲法」の不備は、その点ではない。

ま、詳しいことはブックレットを読んで(笑って)いただきたいが、井上氏の発言は、あまりにもイデオロギーに満ち満ちているとぼくは思う。欧米は無条件で素晴らしく、戦前の日本は暗黒の社会・・・、まるっきりGHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」そのまんまだ。

そしてそんな井上氏が絶賛する「日本国憲法」も、イデオロギーによって生まれた存在だ。欧米人の”理想”の、寄せ書きだ。

伊藤哲夫さんの『明治憲法の真実』(到知出版社・2013年)という本によると、「日本国憲法」の「前文」は、「アメリカ憲法」「リンカーンのゲティスバーグの演説」「マッカーサー元帥が憲法にふくましめようとした三項目」「三国のテヘラン会議宣言」「大西洋憲章」「独立宣言」が典拠となっているそうだ。

「日本国憲法」は、「この国のかたち」ではない。
だからそれは、ぼくらの「現実」と対立する。

つづく


【憲法改正について】
いきなり自主憲法だとか、自民党案だとかは無理があると思うので、とりあえず「前文」と「9条2項」の削除、がぼく個人の意見だ。「9条2項」の削除に強い抵抗があるなら、自衛軍は有するが、侵略戦争と徴兵制は禁止する、と改正すれば共産党も反論しにくいんじゃなかろうか。

『キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-』(2013年)

ハーロック
ここまで、日本人が自然に持っている美意識や美徳として、「自己犠牲の精神」「相互扶助の精神」「約束を守ることの尊さ」を描いた作品をみてきたが、今回はその先を示すメッセージを持つアニメを取り上げる。お題は松本零士の代表作、『キャプテンハーロック』だ。

ハーロック映画の旧作は、1982年公開の『わが青春のアルカディア』。
その世界では、地球は「イルミダス」という宇宙人との戦争に敗北して、占領統治を受けていた。イルミダス人は地球人を奴隷扱いにしていて、「この薄汚い黄色のネズミめ」とののしって、「フライドチキン」を投げつけてくる。イルミダス人は言う。

地球人はすぐに新しい環境に順応する。つまり、昨日まで敵だとわめいていた我々に、今日は尻尾を振ってついてくる

地球側の「協力内閣首相」は、イルミダスに協力すれば安全が得られると言って、ハーロックにトカーガ星侵略の先兵になれと命じてくる。ハーロックは地球を脱出し、イルミダスへのレジタンスを開始する・・・。

説明の必要もないと思うが、要するに「地球」=敗戦後の日本で、80年代になってすっかり見えにくくなったアメリカの支配と戦い続けているのがキャプテン・ハーロックということだ。

60〜80年代には同じように「アメリカ」をテーマに含んだ作品がゴロゴロあった。このブログで取り上げたものでいえば、『ジャイアントロボ』『帰ってきたウルトラマン』『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』『戦闘メカ・ザブングル』など。

それが、1982年の『超時空要塞マクロス』あたりから「アメリカ」の影が急速に薄くなっていった原因について、80年代のバブル経済による日本人の自信回復があったとぼくは見ている。この頃は『マクロス』以外にも『ナウシカ』や『うる星やつら』など、少女を主役にした作品が多数ヒットして、男の子向けのウルトラマンなどは1980年の『ウルトラマン80』でいったんシリーズを休止している。

つまり、もう戦後ではないんだと、我々は軍事力なしにアメリカの土地を占領(実際は購入)しているじゃないかと、経済力で戦った第二次日米戦争の勝者はわれわれ日本だと、そんな感覚だろう。

しかし結局は、1988年に押しつけられた「日経平均先物」の売り浴びせを契機に、バブルは崩壊させられた。日本はふたたびアメリカに敗戦し、金融ビッグバンやら規制緩和やらと、経済活動でも様々な支配を受け始めた。

エヴァンゲリオン』が、あたかもアメリカなんて問題外かのように扱って、現実逃避(オカルト)に走った気持ちも良く分かるし、そこから「セカイ系」なんてスーパー内向的な作品群が派生したのも同情できる。

日本はもうダメだ。朝日新聞や日経新聞には、連日のようにそう書いてあるじゃないか・・・。

だから、かつて地球(=日本)を見捨てたキャプテン・ハーロックは、今度は地球を破壊しようとする。

キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-』(2013年・東映)の世界では、宇宙に広がった5000億の人類が一斉に地球に帰還しようとして、戦争状態に突入してしまう。人類はその調停役として「ガイア・サンクション」なる統治機構をつくり、地球は「聖地」として封印され、今も青く美しい外観を保っていた。

しかしその姿はウソだった。
美しい地球はホログラム衛星が作り出した虚像で、本当の地球は赤くただれた大地をガスが覆う、みにくい姿をしていた。

その原因を作ったのは、他でもない、われらがキャプテン・ハーロックだった。
ガイア・サンクションから地球の警備を任されたハーロックだったが、一部の支配者層が秘かに地球への居住を始めたことに激怒して反旗を翻すと、「ダークマター物質」で地球を覆い尽くしてしまったのだった。

自分の手で地球を死の星にしてしまったハーロックは、宇宙そのもののリセットを企て、「次元振動弾」なる爆弾を99の惑星にセット、最後の一つを地球に仕掛けるべく「ガイア・サンクション」との最終戦争に突入した。

・・・と、ここまで聞くと、悪役は地球を死の星にしたハーロックじゃないの?
という疑問が沸くが、正解だろう。
主役は、ガイア・サンクションから送り込まれた工作員、ヤマの方だ。

一度は任務どおりにハーロックを捕らえたヤマは、降り立った地上で一輪の花を見つけて衝撃を受ける。
地球は何度だって甦る、人間だって
ヤマはハーロックを解放すると、アルカディア号から全宇宙に同時放送を行い、地球の本当の姿を実況中継する。
真実から逃げずに向き合ってこそ、はじめて俺たちは本当の一歩を踏み出すことができる

真実を全人類にさらされたガイア・サンクションは地球を破壊しようとするが、アルカディア号がそれを阻止する。戦いは終わり、戦闘で眼を傷つけたヤマにハーロックが眼帯を手渡し、ヤマの舵でアルカディア号は宇宙の闇に旅立っていく・・・。



細かいストーリーは映画をみてもらうとして、旧作と新作におけるハーロックの立場は、『日本沈没』の新旧作における山本総理に近いようにぼくは感じる。『日本沈没』旧作で「何もせん方がええ」という極論を完全には否定できなかった山本総理は、新作では災害で落命した。

『わが青春のアルカディア』で地球を見捨てたハーロックは、新作『SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK』では自らが地球崩壊の原因を作ってしまう。そして最後は、ヤマという若者にキャプテンの座を譲ることになった。

いずれも旧作は否定され、新作で新たなメッセージが発せられているとぼくは思う。
ハーロックの新作で言えば「真実から逃げずに向き合ってこそ、はじめて俺たちは本当の一歩を踏み出すことができる」が、そのメッセージだろう。

脚本は、『亡国のイージス』や『終戦のローレライ』の福井晴敏だ。メッセージが左巻きである可能性はゼロに近い。

いわゆる「サヨク」の反義語としての「保守」が意味するのものは何か。
ぼくはそれを、歴史の事実を知った結果、だと考えている。イデオロギーではないので、「染まったり」「かぶれたり」する性質のものではない。かつ不可逆的だ。

例えば、いわゆる「従軍慰安婦」を軍が強制連行した証拠はない、とか、いわゆる「南京大虐殺」の実在を裏付ける物証はない、とか、東京裁判や日本国憲法制定は国際法違反だ、とか、戦後GHQは「WGIP」で日本人を洗脳した、とか、そういった歴史の事実を知っていって、なおサヨクでいられるのは無理がある。サヨクでいられるのは、事実を知らないか、何らかの事情によって知らない事にしているかだ。

そして、サヨクでいるうちは「本当の一歩を踏み出すこと」はできない。
彼らは日本を(ウソの)過去に縛り付けようとしているのだから当たり前だ。『恐怖新聞』とかに出てくる、海で足にすがりついて溺れさせようとする水死者の霊、サヨクにはああいうイメージしかない。

※参考動画
【筆坂秀世】日本共産党と中韓~左から右へ大転換してわかったこと[桜H27/7/7]

というわけで、1980年前後、もっともラディカルに戦後日本の本質を描いた作品のリメイクが、自らその戦後的な枠組みを全否定したことには、大きな意義があるとぼくは思う。イデオロギーによるのではなく、普通の日本人が自然に持っている美意識や美徳が、次の時代の日本に反映される気運は、確実に芽生えている。


つづく

ONE PIECE「ビンクスの酒」

ブルックとラブーン
ONE PIECE』には、以前取り上げた劇場版『冬に咲く、奇跡の桜』(2008年)を始めとして、いわゆる「いい話」がやたら多い。人によって好みは別れようが、ぼくは音楽家ブルックとクジラのラブーンのエピソード、「ビンクスの酒」が好きだ。

主人公ルフィーに8人目の仲間として「麦わらの一味」に勧誘されたブルックは、仲間との約束を果たさなければ男が立たない、と言って申し出を断る。それは50年以上前に「双子岬」に残してきたクジラの子、ラブーンとの、再開の約束だった。

ラブーンと別れた後、ブルックが所属する海賊団は全滅したが、「ヨミヨミの実」の能力者のブルックだけは骸骨となって生き残った。ブルックは、団員たち最後の合唱となった「ビンクスの酒」を録音したトーンダイヤルを、ラブーンに聞かせる夢を持っていた。

その話を聞いたルフィーは、旅の途中でラブーンに会ったことをブルックに教える。ラブーンは今も、50年以上昔に交わした約束を信じて、双子岬でブルックたちの帰りを待っていると。ブルックの眼窩から、涙がとめどなく溢れ出る・・・。

前回、前々回の記事に続く、日本人の「自然な」美意識や美徳シリーズ第3弾は、「約束を守る」ことの大切さだ。

世界には国同士で交わした条約を無視して平気な民族もいるが、日本人は日露戦争の借金を80年以上かけてでも完済するような国民だ。約束を守ること、約束を信じることの大切さを描いた作品は、なんぼでも存在する。

・・・が、ここでもまた、例によってそんな日本人の「自然な」美意識・美徳と、全く合わない存在がある。
もちろん(笑)「日本国憲法」がそれだ。

自民党の石橋ゲル、じゃなくて石破茂さんが、20歳若い評論家の宇野常寛さんと対談した本に『こんな日本をつくりたい』(太田出版・2012年)がある。雇用、社会保障、地方行政、安全保障、憲法、歴史など、多岐に渡る分野における石破氏の思想を知る絶好の本だが、まぁ大抵の場合、物わかりの良い(フリをした?)おじさんが、若者の意見をハイハイとにこやかに聞いてる印象の本でもある。

ところが、宇野さんが靖国問題について、「共同追悼施設」をつくるしかない、靖国神社への国会議員や政府関係者の参拝は禁止して、A級戦犯は分祀するしかない、と言ったところ、石破氏は明快に反論する。

うーん。私はそうは思わないな。戦前において、日本国と兵士たちの約束は、「戦争で散華(戦死の婉曲的な表現)した者はすべて靖国神社に祀られる」「天皇陛下が必ずご親拝くださる」という二つの内容でした。昭和天皇は1975年の11月を最後にご親拝されていませんし、今上陛下も同様です。いわゆる「A級戦犯」が合祀されたから、という説が有力ですが、とにかく天皇陛下にご親拝いただくように努めることが政治の仕事だ、と私は思っているのです。


実際には、天皇陛下の靖国ご親拝が途絶えたのは、当時の社会党(現在の民主党+社民党)議員たちが「憲法20条第3項」に違反していると訴えた事件がきっかけだそうだが、その点の詳細は、専門のブログ様へパスしておこう(「正しい歴史認識、国営重視の外交、核武装の実現」)

とにかくここで石破氏が言ってるのは、昔の人たちが交わした約束を、今の人たちの勝手な都合で変えてしまってはいけない、ということだ。例えば青山繁晴さんによると、硫黄島のコンクリートの下には今も成仏できない英霊の魂が存在しているそうで、「靖国で会おう」と交わされた約束は、まだすべてが果たされたわけじゃないのだ。

なのに、その約束を無効だとするのが日本国憲法だ。
と言っても、もちろん「日本国憲法」という憲法典にそう書いてあるわけじゃない。
それの解釈を生業とする憲法学者さまの手で、それの正当性の根拠として、約束は無効にされたのだ。
八月革命説」だ。

1945年8月、日本国は「革命」によって新しく生まれた国家だ。
そう言って憲法学者は、「日本国憲法」が抱える諸問題を乗り越えようとした。その結果、例えば東大法学部においては、日本は戦前と戦後に分断された。

ならば戦前に交わされた約束に効力はない・・・。
と、1978年生まれの宇野さんが考えての発言とは思わないが、「A級戦犯」という単語の前に「いわゆる」をつける石破氏と、何もつけない宇野さんでは、昔の人たちがいまだ果たせぬ約束への思いの軽重を感じざるを得ない。

言うまでもなく、数度の国会決議によって日本にもう「戦犯」は存在しない。民主党の元総理大臣、野田佳彦氏も「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」と国会で発言している。


というわけで、ひとしきり石破氏アゲをしてみたぼくであるが、もちろん、氏への不満もある。
よく指摘される、南京事件についての見解には納得できない。

南京大虐殺と言われる事件にしても、1937年12月時点の南京で日本軍の軍紀が非常に乱れていたこと、東京から監察官のような者まで現地に入ったこと、南京陥落の四日後に南京入りした中支方面軍司令官の松井石根大将が、日本兵による略奪、暴行、強姦事件の報告を受けて「南京攻略に成功し皇威を輝かせたのに、兵の暴行によって一挙に貶められた」と泣いて怒ったことなどを考え合わせれば、規模はともかくとして虐殺があったことは事実を言わざるを得ない。

石破氏はこう言うが、事実誤認がある。
早坂隆さんの『松井石根と南京事件の真実』(文春新書・2011年)によると、松井大将が「涙の訓示」を行ったのは1938年の2月7日、すなわち南京入城から3ヶ月近く後のことだ。
訓示を直接聞いた飯沼参謀長の日記には、要旨としてこう書かれているそうだ。

南京入城の時は誇らしき気持ちにて其翌日の慰霊祭亦其気分なりしも本日は悲しみの気持ちのみなり。其れはこの50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたればなり、何を以て、この英霊に見えんやと言うに在り


松井大将が嘆いているのは、50日がたっても「自分が思い描く水準に達しない軍紀」に対してであって、入城当時の話ではない。大将は、南京陥落当時のことは「誇らしき気持ち」だと言ってるじゃないか。他の誰よりも中国人民を愛していたと言われる大将自身が。

石破氏には一度、早坂隆さんから南京事件についてのレクチャーを受けていただきたいと願う。
その一点を除けば、安倍総理に万が一の時は、石破総理で大丈夫なんじゃないかと思える。

つづく

【2017年5/28追記】
石破氏の「自虐史観」は修正不能なレベルであることが分かったので、「石破総理」は御免被る、と訂正します。

『小さき勇者たち〜ガメラ〜』(2006年)

相沢透

今のところ、ガメラシリーズ最後の映画が『小さき勇者たち〜ガメラ〜』(2006年)。
大人も楽しめる本格怪獣映画だった「平成3部作」とは異なり、小さな子供向けに作られた「ジュブナイル作品」だ。

あらすじは簡単。
ガメラのたまごを拾った少年は、生まれた子亀を「トト」と名付けて可愛がる。トトはすぐに大きく育ち、少年の前から姿を消す。少年の町が怪獣ジーダスに襲われると、8mほどに成長したトトが現れて撃退。力尽きたトトは、名古屋の研究所に連れて行かれる。

トトを追ってジーダスが名古屋を襲い、第2ラウンド開始。苦戦するトトには、たまごの台座として置かれていた「赤い石」が必要だと知った子供達は、逃げ惑う大人たちの流れに逆らって「赤い石」のバトンリレーを始める。最後に少年から「赤い石」を受け取って、ついに完全体となったトトはジーダスに圧勝する。

再び力尽きたトトを自衛隊が捕獲しようとするが、子供達に制止される。飛び去っていくトトに、少年が「さよなら、ガメラ」と言って、終幕。

前回の記事では、局面から「自然に」現れてくる日本人の美意識や美徳として、「自己犠牲の精神」を挙げてみたが、今回はどうだろう。凶悪な怪獣から人間を守るために戦ってくれるガメラが「赤い石」を必要としたとき、危険を顧みることなく走った子供達。

それを一言でいえば、「相互扶助の精神」だろう。要は、助け合いだ。

『小さき勇者たち〜ガメラ〜』で特筆されるべきは、それがひとりトトの飼い主の少年によるものではなくて、見ず知らずの子供達の協力によって成し遂げられたことだろう。前回も書いたが、3・11という最悪の局面で、それが「自然に」顕れてくる日本人の美意識・美徳であることを、ぼくらは目の当たりにできた。

・・・が、ここに一つ、それを真っ向から否定する存在がある。

前回の記事では、「自己犠牲の精神」に対抗する思潮として、「戦後民主主義」を挙げた。
戦後民主主義では、他の何よりも「自分」という個人が大事だとされるんだから、犠牲になるのは自分以外でなければならない。

だがそれは、実際には日本人の感覚や感性にはあっていないとぼくは思う。そりゃ当然で、そんなのはGHQが戦後に広めた、たかだか70年の歴史しかないシロモノだ。敗戦前に亡くなった日本人は、その存在すら知らないのだ。

さてでは今回の「相互扶助の精神」を否定しようとする存在とは何か。
日本国憲法」だ。
戦後民主主義の生みの親だ。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(『日本国憲法』前文)


例えば、クラスに中国くんという極悪のいじめっ子がいて、そいつはすでにチベットくんやウイグルくんを奴隷として扱い、横暴を極めてるとしよう。最近ではフィリピンくんが、中国くんをナチ呼ばわりして怖がってるとしよう。この時、他のクラスメートにできることは、一致団結して中国くんの暴力に対抗することだろう。フィリピンくんをいじめるなら、他の全員が相手だと思えと。

しかしそんな「相互扶助の精神」を、「違憲」だというのが「日本国憲法」だ。
でもそれって、日本人の自然な感覚から言って、かなーり「不自然」じゃないか?
しかも、いわゆる「護憲派」の連中は、自衛隊の存在は違憲じゃないと言うし、個別的自衛権も違憲じゃないと言う。
つまりは「自分は守るが、他人は助けない」のが「日本国憲法」の精神だということだ。

空軍少佐、じゃなくて3等空佐で退役後、評論家として活躍されている潮匡人さんは、『ウソが栄えりゃ、国が滅びる 間違いだらけの集団的自衛権報道』(KKベストセラーズ/2014年)という本のなかで、朝日新聞やNHKを始めとした護憲派メディアを「人類史上、最も不潔で破廉恥な意見を掲げながら安倍政権を非難している。じつに破廉恥な連中だ」と罵倒されている。実に痛快だ。こんな過疎ブログで時事問題を扱っても意味はないんだが、せっかくなので潮さんの本から集団的自衛権について、おさらいしてみたい。

まず集団的自衛権の定義だが、昭和56年の政府答弁書では「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利」とされているそうな。ポイントは「阻止する権利」で、集団的自衛権には「反撃する権利」などはない。それは国際法違反だし、国連憲章でも「復仇権の留保を認めていない」そうだ。要するに、アメリカと一緒になって反撃する権利、などは悪質なミスリードということだ。

さらに、集団的自衛権の行使によって、アメリカと一緒に戦争させられる(巻き込まれる)もウソだ。

 同夜放送のNHKスペシャル「集団的自衛権 行使容認は何をもたらすのか」でも、集団的自衛権を「反撃する権利」と国際法を無視し、勝手に定義したうえ、アフガン派遣で犠牲を出したドイツの例を挙げ、「犠牲者を生むリスクが高まる」と間接話法で指摘した。
 だが、その例は番組が報じたとおり「国連の枠組みの下」の活動である。つまり集団的自衛権の行使ではなく、集団安全保障のケースである。両者は似て非なる概念であり、水と油の関係とも説明される。


ついでに、自衛官不足が招く徴兵制もウソだ(潮さんのご息女は防衛大の学生さんだ)。
みんなで協力して守れば、軍事力は少なくて済む。

 現に日本以外のすべての国が集団的自衛権を行使できる。限定容認どころか、最初から容認されているが、英米その他、先進国で徴兵制を採る例は少ない。他方、中立政策のため集団的自衛権を行使しないスイスは国民皆兵(徴兵制)である。

最後に、潮さんの本から適当に〆の言葉をお借りすれば、こうか。

 護憲リベラル派は、特定秘密保護法案でも、自衛隊イラク派遣でも、防衛庁の防衛省昇格でも大騒ぎした。自衛隊が初めて国連PKOに参加した際も大騒ぎしたが、彼らの懸念はすべて回避された。イラク派遣も同様である。それどころか、世界中から称賛された。



つづく


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