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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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シン・ゴジラとGのレコンギスタ

シン・ゴジラとGのレコンギスタ
ここまで見てきたように、昭和からミレニアムまでのシリーズで、ゴジラは実に様々に描かれ、様々に語られてきた。中には、劇場の外で語られたことを元にして、描かれたゴジラさえあった(GMKなど)。いま仮に、それらを引っくるめて「ゴジラの物語」と呼ぶことにしよう。

そうして『シン・ゴジラ』に目を移すと、今さら言うまでもなく、シン・ゴジラが「ゴジラの物語」とは全く無縁な存在であることが改めて見えてくる。シン・ゴジラには、福竜丸も原爆実験も原発事故も、なーんの関係もない。アメリカ人が海洋投棄した核廃棄物の影響を受けて怪獣化した生物が、たまたま2回東京に上陸して歩き回り、攻撃を受けたからやり返した・・・というだけの話だ。

実ははじめに見たとき、ぼくには『シン・ゴジラ』は何だか淡泊な映画に思えた。
しかし何度か見るうちに、これはしみじみ味わい深い映画だと意見が変わった。ここには「素」のゴジラの姿があり、ゴジラを「ゴジラの物語」から解放して、自由にしてやる映画なのだと思うようになった。
最初、淡泊な印象を持ったのは、庵野・樋口がどんな新しい「物語」を見せてくれるのかと、ぼくが過剰に期待していたからだろう。

だからぼくは、『シン・ゴジラ』に「3.11」は見ない。
「3.11」であるなら、まず描かれるべきは菅直人・枝野幸男らの愚行による「人災」のはずだが、映画に出てくる大河内内閣は無能ではない。彼らは、人災だと非難されるような失態は犯していない。

また、公開当時ネットで見かけた、牧悟郎博士がシン・ゴジラの「中の人」である、というような説にも賛同しない。それじゃシン・ゴジラは、自分は被害者だと逆恨みして罪もない人を殺戮しまくった怪獣ジャミラと同じじゃないか(笑)。

また、呑川から蒲田駅東口、そこから第一京浜で北品川へ、というのがサラリーマン時代のぼくの通勤ルートだったからと言って、『シン・ゴジラ』で暗喩されているのがぼくである可能性もない。

それと、庵野ファンなら考えてしまう「オマージュ」も、それぞれの劇中で、内閣総理大臣と内閣総理大臣補佐官が「ワシントンにゴジラが現れたとしても核兵器が使えるか」という同じ内容の問いかけをしている点から、1984年の『ゴジラ』に見る以外の作業は、ただの考えすぎ、なんじゃないかと、ぼくは思う。
それでは『シン・ゴジラ』に、新しい「物語」を背負わせてしまうことに、ならないか。

もう一度言うが、『シン・ゴジラ』には福竜丸も原爆実験も原発事故も、なーんの関係もない。
しかも映画の中でもご丁寧に、シン・ゴジラは「熱核エネルギー変換生体器官を内蔵する混合栄養生物」、すなわち水や空気だけで生存・活動ができる生物(wiki)だと説明して、核分裂だけしてる原子炉とは異なる、てかそれ以上の存在だと言ってるのに、なんで福島瑞穂にはシン・ゴジラが「福竜丸」「原爆実験」「原発事故」と関連してるように見えるのか。

それは福島瑞穂が「現実」ではなく「物語」しか見ていないからだろう。

福島みずほ @mizuhofukushima 4時間4時間前
「シンゴジラ」を見る。
福竜丸の展示館に行くと、太平洋で行ったアメリカの原爆実験がどれだけ被爆を生み出し、放射性物質が海流を回っているかわかる。
核はウラン採掘から高レベル放射性物質の処分まで命と環境を傷つける。
ゴジラは人類の身勝手から生じた悲しい化身に見える。そして人類は復習される


なるほどそういう「目」から見れば、なけなしの軍札を握りしめ、胸躍らせて慰安所の前で行列した兵隊さんたちの姿は、泣き叫ぶ少女を暴力で村から連れてきて輪姦した、悪辣非道な侵略者の姿に見えるのだろう。
「戦地における女性の人権」なんて、分かったような気にさせるだけの典型的な「物語」じゃないか。世界も歴史も人間も、そんな単純化された「物語」から理解できるとは、到底思えない。

実際、『シン・ゴジラ』では、何か得体の知れない生物が災害を巻き起こし、政府と自衛隊がそれを「現実的に」駆除しようと試みる様子が丁寧に描かれている。キャッチコピーは「現実対虚構」だったが、重点はあくまで「現実」で、「虚構」の方はゴジラでもガメラでも巨大な犬とか猫とかでも、何でも良かったような気さえする。

などと考えたとき、何だか似たような立ち位置にいると思える人物が二人、脳裏に浮かんだ。
一人は富野由悠季監督、作品は『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014〜15)だ。

あらすじは、・・・やめておこう(笑)。
とりあえず初めて観たときの印象は、異様に分かりにくいアニメじゃのぉーに尽きた。それもそのはずで、客観的なナレーションもなければ、テロップも一切でないし、一目で分かる世界の図解のようなものも出てこない。国際情勢や人間関係は(例によって)込み入っているし、同時多発的に事件が起こっていく。

んでそんな分かりにくい世界の中で、主人公の少年と少女は戦いながら生きていき、世界を、人間を、そして自分を知っていく。地上で相争う二大国の、それぞれの高官の子弟として知り合った二人は、やがて自分たちが実の姉弟であることを知り、元々は宇宙からの支配層に属した出自であることを知り、そのさらに奥にある人類の秘密にまでたどり着く。

大人たちは、そんな二人の若者を、自分たちの「物語」に組み込もうとするが、二人はそれを拒否する。世界の現実を複雑なまま受け入れて、現実的に対応していく道を選ぶ・・・って、ひとことで言えば、「非セカイ系」って感じですか?

セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、・・・(wikipedia - セカイ系より)


もっと分かりやすく言えば、国会前で反政府デモとかやってるシールズとか、ああいう若者が「セカイ系」なんじゃないか?
現実的に考えれば、夜の国会前でわーわー騒いだところで、世界がわずかでも変わるなんてことは有り得ない。それは、彼らが主張してることの大半が、「物語」だからだ。安保関連法案が成立すると徴兵制、なんて、非現実的な「物語」以外の何物でもないでしょ。

で、そう来れば、彼らにやめろやめろと騒がれている人物は、まさに「物語」ではなく「現実」の側にいることになるんじゃないか?
シン・ゴジラと、Gのレコンギスタと、安倍晋三・・・か?

つづく

シン・ゴジラと平成ゴジラ

ゴジラのメルトダウン
平成ゴジラの第二作は『ゴジラvsビオランテ』。
注目すべきはその公開日で、1989年12月16日。それは日経平均株価が史上最高値38,957円に達する13日前のことだ。
まさにバブル経済のピークで作られた映画で、ゴジラはどう描かれ、どう語られたのだろうか・・・。

いや、先に言ってしまうと、実は今回ゴジラ自身はそれほど大した役回りではなかった。ゴジラは、前回東京で暴れた際にバラまいてしまった「G細胞」から人間が作ったビオランテをぶっ殺しに芦ノ湖まで出かけたり、戦闘で腹が減ったのでメシを食いに若狭湾の原発銀座に出かけたりしただけだ。

興味深いのは、ゴジラに対応する人間側のストーリーだ。

前作で、あれほど話題の中心にあった米ソの戦術核が、今回はまったくお呼びが掛からないのは何故なのか。
理由はいたって簡単で、すでに日本人は「ゴジラの体内の核物質を食べるバクテリアを利用した抗核エネルギーバクテリア」の開発を進めていたのだ。

要するに、核の無力化だ。
ゴジラの駆除を名目(口実?)に、米ソの核兵器をも無意味化しようという壮大な目論みは、ほんとバブリーだ。さすがは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代だ。
そんな時代にあって、もはや日本の防衛をゴジラに任せる必要は全然ない。平成ゴジラが昭和ゴジラのように守護神化しなかったのは、当時の日本人のそんなバブリーな意識が根底にあったのかも知れない。

というのも続く『ゴジラvsキングギドラ』(1991)では、21世紀に世界一の経済大国になって南米やアフリカを買収し、22世紀末には米露中を凌ぐ世界最大の国家に成長する日本の未来が、23世紀からタイムマシンでやってきた未来人の口から語られるのだ(今となっては空しい妄想だが、当時は欧米の不動産とかバンバン買ってたわけでw)。

んで未来人はそんな日本をまだ弱いうちに叩いてしまうことを計画し、まず1945年、南太平洋で「ゴジラザウルス」なる恐竜の状態で生きていたゴジラを、ベーリング海の海底に移送する。これで怪獣ゴジラの誕生を阻止したうえで、キングギドラを使って1992年の日本の破壊を開始した(てことは、彼らはゴジラがゴジラでいた場合、キングギドラと戦って結果的に日本を守ってしまうことを知ってたんだろうね、なぜかは知らねど)。

ところがこの世には「定め」というものがあって、ビキニ環礁を遠く離れた北極近くのベーリング海で眠っていたゴジラザウルスのごく間近で、なんとソビエトの原子力潜水艦が火災を起こし、沈没したことがあったらしい。ソ連は口では回収したした言うけれど、まぁ放置されるのが普通だ。
つまり、平成シリーズのゴジラは、アメリカの水爆実験とは丸っきり関係ないままに、ソ連製の核燃料の影響で、恐竜が怪獣になってしまったものだというわけだ。しかも当のソ連がすでに崩壊していたため、だれを恨んだらいいものやら。

さてこのゴジラ、本当なら亡くなったソ連の潜水艦クルーの魂を宿してウラジオストックでも襲うのが正しいように思えるが、彼は一心不乱に東京を目指す。もちろん、その理由がゴジラの口から直接語られることはないが、ドラマが一つの可能性を示唆していた。

新宿の高層ビルの最上階で、ひとりゴジラを待つ新堂靖明は、1945年、南太平洋の戦場でまだ恐竜だったゴジラザウルスに命を救われたことのある男だった。ゴジラザウルスのおかげで生き残った新堂は、帰国後「帝洋グループ」を興し、今では「戦後日本経済を立て直した男」として経済界に君臨していた。

新堂はゴジラザウルスを「救世主」と呼び、怪獣のゴジラもそうだと考えた。ゴジラも、彼のためにキングギドラと戦ってくれるのだと思っていた。しかし実態は、ゴジラは新堂らが営々として築き上げてきた「この国の繁栄を壊しにきた」だけだった。ゴジラと目が合った新堂は、何かを悟ったように数回うなずき、次の瞬間、ゴジラの吐く熱線で消滅した。

この展開、このドラマが示唆するものは、ゴジラ(ザウルス)は新堂が作りあげたと自負している戦後日本の繁栄、バブルに踊る東京を、新堂もろとも消し去りにやってきた、ということだろう。俺はこんなもののために、お前を助けたわけじゃないのだとばかりに。
そしてそれが、ゴジラが東京を目指した理由であると。

この時、新堂を通して語られているゴジラは、『風の谷のナウシカ』に登場する「巨神兵」のような存在だとぼくは思う。
つまり物事の善悪・可否を決める、裁定者だ。

平成ゴジラの最終回は『ゴジラvsデストロイア』。
公開は1995年12月なので、テレビ東京でひっそりと『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった少しあとに当たる。
エヴァについては、バブル崩壊後のダークな日本社会の反映として語られることが多かった記憶があるが、平成ゴジラの最期も異様なものだった。

一言でいえば、ゴジラは動く原子力発電所だった。

この回、何をとち狂ったか、返還間近の香港で大暴れしたゴジラは、身体は真っ赤に発光してるわ、白煙はもうもうと上がっているわで、もう爆発寸前の危うさ。そんな状態でさらにメシを食おうと伊方原発に近寄ったりするので、危なくて仕方がない。

結局いろいろあって、最期は、晴海の臨海副都心でメルトダウンを開始。
溶けた皮膚の裂け目から閃光を発し、放射能を撒き散らしながらドロドロに溶けていって、東京を誰も住めない死の街にしてしまったとさ。


長くなってきたので早口で言うと、ミレニアムシリーズ(1999〜2004年に全6作)は、昭和シリーズや平成シリーズのような続き物ではない。それゆえかゴジラのイメージが拡大されることがなかったが、『ゴジラxメカゴジラ』(2002)と『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)の連作には触れておきたい。

ここで政府が極秘裏に建造したメカゴジラ(機龍)は、実は昭和29年に海中で薬殺された初代ゴジラの骨格をそのまま使っていた。
八景島に上陸したゴジラを相手に優勢に戦いを進める機龍だったが、ゴジラの苦しげな咆哮を聞くと反応し、操作不能に陥ってしまう。この隙にゴジラはあたふたと海に逃げのび、残された機龍が代わって横浜市金沢区の破壊を始めるのだった・・・。

ということで、昭和・平成・ミレニアム各シリーズで描かれた、語られたゴジラについて、急ぎ足で紹介してみた。
これらを踏まえた上で、次回ようやく本題に入りたい。

つづく