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竹波エーイチ

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『暗黒神話』のタケミナカタ -出雲編その4

暗黒神話のタケミナカタ

神話時代の、出雲の国。
「国譲り」を迫る高天原からの使者タケミカヅチ(鹿島神)に抵抗したのは、オオクニヌシの次男、タケミナカタだった。だがタケミカヅチはあまりにも強く、腕を引きちぎられたタケミナカタは諏訪まで敗走。諏訪から一歩も外に出ないことを約束して、命だけは助けられた。

時は流れ、昭和の長野県、蓼科山中。
父の死の真相を知るために、謎の老人に導かれた洞窟の中で、主人公の武は腕のない巨大な怪物と遭遇する。それは鎖に繋がれて幽閉された、タケミナカタの末路だった・・・。

諸星大二郎の名作『暗黒神話』が「少年ジャンプ」に連載されたのは1976年(昭和51年)のこと。ぼくは「チャンピオン」派だったので当時の記憶はないが、これと『トイレット博士』やら『東大一直線』やらが同時に掲載されていたあたりに、飛躍間近の「ジャンプ」の底力を感じる。


さて、マンガでは(というか『古事記』では)、憐れな敗北者として描かれたタケミナカタだが、諏訪の伝説では話が全くの反対らしい。そこではタケミナカタの方が、強大な侵略者として語られた。

もともと諏訪には「洩矢(もりや)」という神がいて、縄文時代からずっと精霊ミシャグチを祀ってきた。そこに「国譲り」を迫ったのがタケミナカタだった。以来、勝利者となったタケミナカタの子孫は諏訪大社の「大祝(おおほうり)」として現人神となり、洩矢神の子孫はその祭祀を司ったそうな。

一説によると、諏訪で起きた「国譲り」こそが歴史的事実を反映していて、『古事記』のそれはパクり、というかそれにインスパイアされた創作だ、とも。

というのも、父オオクニヌシが治める出雲から逃げてきたはずのタケミナカタだが、出雲地方にはタケミナカタを祭神とする神社はゼロで、『古事記』に記載されているオオクニヌシの子孫にはタケミナカタの名前がなく、『出雲国風土記』等にもやはりタケミナカタの名前はない。要は、この神は出雲とは無関係としか思えないらしい(『諏訪神社七つの謎』皆神山すさ/彩流社による)。

それじゃタケミナカタはどっから来たかといえば、『先代旧事本紀』にはヌナカワヒメという「越の国(こしのくに)」の女神とオオクニヌシの間にできた子だと書いてある。つまりは新潟近辺なんだろう。実際に新潟県にはタケミナカタを祭神とする神社が1522社もあって、それは長野県の1112社を上回っているとか。(『諏訪神社七つの謎』)。

実は弥生時代後期の出雲と越には、深い繋がりがあったらしい。当時、ヤマトの前方後円墳に対して、出雲は四隅突出型墳丘墓で張り合って(?)いたが、出雲タイプは中間の「丹波国」をすっ飛ばして、越国に普及していた。出雲と越が遠く手を組んで、近畿のヤマト・丹波連合と対峙していた証だと、どこかで読んだことがある。


そういえば、何かの参考になるかと視聴したNHKスペシャル「“御柱”~最後の“縄文王国”の謎~」(2016年放送)は、歴史観の部分に違和感があって、素直に楽しめなかった。諏訪先住の「モレヤ神」に「縄文」「狩猟」という属性を与えるのはいいとしても、タケミナカタを「弥生」「農耕」の神に設定するのは強引すぎる。

タケミナカタを祀ってきたとされる諏訪大社について、東大名誉教授の大林太良先生は「狩猟民文化の余薫が香っている」(『私の一宮巡詣記』青土社)と言われてるし、『諏訪神社七つの謎』にも「諏訪明神は狩猟の神」と書いてある。

タケミナカタ=弥生=農耕なんてのは、結論ありきのレッテル張りだ。

そもそも、縄文と弥生は対立項ではなく、同じ日本に住む人々の生活が時間をかけて変わっていっただけなのに、NHKには日本民族を分断させたい意図でもあるのかと、勘ぐりたくなる。日頃のNHKの反日的な放送姿勢が、そう疑わせる。

境内

8月上旬、くっそ暑い最中を諏訪に行ってきた。
諏訪湖の南にあるのが上社(本宮と前宮)、北にあるのが下社(春宮と秋宮)で、計4社で「諏訪大社」だ。

まずは諏訪インターを降りて直ぐの、上社本宮へ。
建物がゴチャゴチャと配置してある境内で途方に暮れたが、案内図を発見してからは、矢印に従って順路を巡り、無事お詣り終了。

その後、北参道の土産物屋でソバをたぐっていると、晴天なのに突如として雷が鳴り響き、あっという間に豪雨に見舞われた。何ちゅう変わりやすい天気か。傘もないので、仕方なく撮った写真など眺めて時間を潰していると、ふいに奇妙な感触に囚われた。

一体全体、ぼくらは何を拝んできたのだろう・・・と。

上に案内図の中央部分を貼ってみたが、右下の「入口門」を入って「授与所」の前を左に曲がり、まっすぐ歩くと「参拝所」がある。ぼくらもここで参拝してきたわけだが、参拝所の先には「拝殿」はあるものの、「本殿」がない・・・。

もちろん、本殿のない神社の存在は知っている。ただその場合は、神の依り代としての巨木だとか巨石だとか・・・。ああそういえば、諏訪大社の公式サイトには御山(守屋山)がご神体だと書いてあったっけ、と案内図を見直すが、「神体山」は参拝所の右手にあって、普通の姿勢では拝むことができない・・・。

だがその理由について、答えは存在してるらしい。
『諏訪神社七つの謎』によれば、もともとは神が降りる「磐座(いわくら)」すなわち案内図の「硯石」がご神体だったので、参拝は両「宝殿」の間の「四脚門」あたりから、硯石と神体山に向かって行われたのだろうということだ。
その後、神仏習合から明治維新までは、「幣殿」の奥に「お鉄塔」なる仏教施設があって、参拝所からはそれを拝んでいたのだろうと。

この説明は、タケミナカタの後裔と称し、現人神として祀られた諏訪氏「大祝」とは何者だったかを考えるとき、説得力を増す。
古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(古部族研究会/人間社文庫)によれば、それは「大和朝廷の仏教政策の具現者」だったそうだ。諏訪の「国譲り」とは、「せまりくる大和朝廷との融和」のために、先住の守矢氏が選んだ苦渋の選択だったのではないか、と。

・・・ううむ、なるほど、大祝が「仏教政策の具現者」なら、神社で「お鉄塔」を拝まされるのも、やむないことか・・・と納得しかけたぼくらだったが、いやいや、「お鉄塔」なんて今は存在してないじゃないか(笑)。
『諏訪神社七つの謎』によれば、それは明治維新の廃仏毀釈で撤去、放置(!)されたとのことで、ホントにみなさん「お鉄塔」を拝んでいたのかは、8つめの謎では?

上社前宮と御柱
(上社前宮と、一の御柱)


それでiPadでGoogleマップを開いて、上社本宮の参拝所から"拝めるもの"を探してみた。
すると、あるある。あるじゃないか。
今でこそ、上社本宮のオマケ(失礼!)みたいなイメージで、正直みすぼらしい印象(重ねて失礼!)の上社前宮って、実はモロに本宮参拝所から1Kmほど先に、参拝者と正対した位置(横向きだが)に鎮座しているじゃないか。

聞けば、前宮はそもそもタケミナカタの墳墓の上に建てられたという説もあれば、大祝の居住地「神殿(ごうどの)」として政治の中心だった場所でもあるとか。ふむふむ、ぼくらは本宮の参拝所から、タケミナカタのお墓であり大祝の旧邸である前宮を拝んでいたのだなー、諏訪は本当に深いし、複雑だなー。

・・・などと納得しかけたぼくらだったが、もう一度Googleマップをよく見れば、本宮と前宮の間には、何だか良く知った名前があるぞぉ。
それは「神長官守矢資料館」そして「御頭御社宮司総社」。
タケミナカタに「国譲り」した洩矢神の後裔である守矢氏の現在の邸宅と、洩矢神が祀っていた「御社宮司」すなわち精霊ミシャグジの総社が、上社本宮と前宮の中間地点に、存在しているぞぉ。

こりゃ、一体どういうこと? 
と『諏訪神社七つの謎』をパラパラとめくってみたところ、天正時代(信長とかの時代)に制作されたとする『上社古図前宮』という一枚の絵が目についた。400年以上むかしの前宮の絵で、4本の御柱のド真ん中に描かれていたのは「御左口神」、すなわちミシャグジ神だった・・・。

何のことはない。
上社本宮の参拝所から拝めるものは、いずれにしてもミシャグジ神だったということか。それはタケミナカタが、のちにはヤマトが諏訪に入ってくる遙か昔の、縄文時代から諏訪で信仰されてきた大地の精霊たちのことだ。
神道でいう「八百万の神」の、原型だ。

結局、ぼくらは知らず知らずのうちに、諏訪の地の、もっとも古い神さまを拝んで来たようだ。

話は下社につづく

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稲毛神社と憲法改正 -出雲編その3

稲毛神社

割と近いところにも、タケミカヅチを祀る大きな神社があると聞いて、行ってみた。川崎市役所から歩いて数分、第一京浜ぞいに鎮座する稲毛神社だ。
川崎市内では唯一の別表神社ということで、市街地にあって小ぶりながら、重厚な雰囲気を醸し出している。

社伝には興味深いことがいろいろと書いてある。
いわく稲毛神社は、第12代景行天皇の御代には「武甕槌宮」として存在していたらしい。長浜浩明さんの計算だと、景行天皇の在位は西暦290〜320年にあたる(参考記事)。邪馬台国の卑弥呼が死んだのが248年と言われているので、かなり古くからある神社だということになる。

そしてそれから200年以上たって、第29代欽明天皇が東国の動乱への対策として、新たにフツヌシ、ククリヒメ、イザナギ、イザナミを配祠したそうな。「以降長らく勅願所とされた」とも。

興味深い点はふたつだ。

まず、元々はタケミカヅチが単独で祀られていたところに、後からフツヌシが加わるパターンといえば藤原氏の春日大社が有名だが、この二大軍神を合体させてパワーアップを図る手法には、古い先例があったという点だ。春日大社の成り立ちを考える際に、念頭に置くべき点だと思う(この点はまたいずれ)。

ククリヒメの配祠も興味深い点だ。
黄泉の国からの出口で口論するイザナギとイザナミの夫婦にククリヒメが「何か」を言うと、イザナギはそれを「褒めて」帰って行ったと『日本書紀』の「一書(第十)」にある。

wikiによれば「この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている」そうだが、稲毛神社の社伝を見る限り、「縁結び」というより「和解」の神という印象がぼくにはある。欽明天皇は、東国の動乱に「和戦両様」の構えで臨んだのだろう。

いずれにしても全国2700社以上の白山神社で、人々は「縁結び」や「和解」といった願いを託し、ククリヒメを祀ってきたのだろう・・・と素直に考えればいいものを、中には妙なことを考える人もいる。1992年に発行された『神道の本』(学研)によると、ククリヒメは「古代朝鮮起源の山神」なんだってさ(笑)。

「白山信仰は朝鮮半島から日本に持ち込まれ、日本のシャーマニズムと融合していった可能性が非常に高い」そうで、「日本と古代朝鮮の大変なつながりの深さを示すものとして、改めて注目されるのである」んだと。

もちろん、それから30年近くたつが、そんなヘンテコな説は誰にも注目されてないようですよ。
まぁ1992年と言えば、朝日新聞が仕掛けた「慰安婦問題」がヒートアップしていて、日本人の自虐史観がピークにあった時期ではあるが、それにしても古代史がらみの本って朝鮮コンプレックスが強すぎて、ウンザリさせられるケースが多過ぎる。

これはぼくが嫌韓だから(笑)言うのではなく、第三者である中国人が書いた『魏志韓伝』によれば、弥生時代の朝鮮半島は「倭」より劣る文化レベルだったわけで、どの時代でも無条件で朝鮮半島が上流のように言うことは、ただの知的怠慢、思い込みだとぼくには思える。

二ッ目厄除守

上の写真左は稲毛神社で買ったお守りで、なんと春に見に行ったチブサン古墳(山鹿市)の壁画がモチーフになっている。強烈な目力で厄を祓うそうな。右は川崎市民のソウルフード(?)、ニュータンタンメンの並盛りに、きくらげトッピング。稲毛神社からクルマで5分ほどの京町店にて。


さて、そうやって合体軍神と和解の姫神を祀っていた稲毛神社に転機が訪れたのが、平安末期。
この地を領有した河崎基家という武士が勧請してきたのが「山王権現」なる神さまだ。この神さまが実にややこしい。

wikiによると「山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である」とのことで、大学受験程度の日本史の素養しかないぼくなどは、何を意味してるのかも、何が有り難いのかも、さっぱり分からない体たらくだ。

おそらく、その実態は複雑すぎて、矛盾も随所にあるのだろう。
だが肝心なのは、川崎(河崎)の人たちが、山王権現という複雑なものを複雑なまま受け入れてきたという現実だ。

その現実は、ぼくには何とも日本人らしい姿に思える。
周辺環境の変化に対応すべく、日本の国防や安全保障は日々複雑化してるのに、肝心の憲法9条はほったらかし。山王権現なんて、訳の分からない神さまを拝み続けてきた河崎村の住民と、今も何も変わらない。

あ、これ日本人批判をしてるわけではないので。
白洲次郎ならプリンシプルがない!と怒るのかも知れないが、ぼくは平安時代も令和の今も、日本人は日本人だなぁと感心してるだけだ。
以前の記事で、『魏志倭人伝』に描かれた1800年前の「倭人」が、ぼくら日本人といたって似た精神を持っていることに触れてみたが、稲毛神社の社伝からも、それは同じように知ることができる。それは「この国のかたち」の根底をなすものだ。

そして「この国のかたち」とは、「憲法」のことを指す。

これはぼくが適当に言い出したことではなく、護憲派の作家として有名な井上ひさし氏が、リベラルの帝王・司馬遼太郎の著作『この国のかたち』(1986〜1996年/文藝春秋)について言及した一説による。

『この国のかたち』という表題は、おそらく「憲法」のことだと思います。司馬さんに伺おうと思いながら機会を失ってしまいましたが、『この国のかたち』は憲法の一番正しい定義だと思います。(『二つの憲法』2011年/岩波書店)

井上ひさし氏の指摘は間違ってない。ネット上の辞書によれば、英語のconstitutionには「構成、組織、構造、体質、体格、気質、性質、憲法、政体、国体」(weblio)などの訳があげられている。要するに何かの「かたち」を表しているわけだ。

ならば「憲法」とは、ウチの国はこういう国ですよ、という自己紹介文のようなものだろう。古代史で言えば、朝廷の役人の心得や理想を列挙した『十七条憲法』よりも、中国向けに本格的な漢文で日本史を綴った『日本書紀』の方が、「憲法」の意味するものに近いと見る。

しかし、そんな自己紹介文に「うそ」が記載され、現実の日本の姿とかけ離れていたとしたらどうだろう。かつて明治政府は、江戸幕府が結んだ不平等条約を改正するために、必死になって研究して、近代国家として欧米に引けを取らない明治憲法を作成した。憲法は、国の表看板であり、縦書きの名刺だ。でもそこに「うそ」が書いてあったら・・・。

「この国のかたち」は、誰かエライ人が決めるようなもんではないし、ましてや共産主義にかぶれたアメリカ人が決めることでもない。この時代を生きる日本人が選んできた現実こそが、「この国のかたち」だ。政治の仕事はその「現実」を読み取って、汲み上げて、そのつど憲法典の記述を修正していくことだ。
とぼくは思う。

・・・が、人間、初めてのことは中々踏ん切りがつかないもの。間違った修正や追加をしてしまう恐怖も、確実に存在する。ならば、なくてもいいものを削除することから始めてみれば良いのではなかろうか。70年もの太古の昔、当時の国際情勢に合わせて書かれた「前文」、いくらなんでも古文書すぎるだろ。

まずはこれを捨てるかどうかの国民投票を実行するのが、憲法改正の初心者にはお手軽な気がする。もちろん削除のあとは、「悠久の歴史がどうしたこうした」みたいなポエムは必要ないので、空白でいい。それか、ドイツの『ボン基本法』みたいなシンプルなやつがいい。

諏訪大社のプラモデル

上の写真は「諏訪大社(下社秋宮)」のプラモデル。城や寺はぼくらが小学生だった頃から売られていたが、神社まであったとは・・・。オタク道、おそるべし。


参議院選挙の開票番組を見ながら書いていたので、変な展開の記事になったが、要は古い神社には「この国のかたち」を知るヒントが沢山あって面白い、が話の結論だ(笑)。
近々、見物に行く予定の諏訪には、「諏訪大社」と呼ばれる神社が4つもあるのだとか。ヒントの量も、4倍か?

つづく

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